2011年5月1日日曜日

「所有ゼミ」を終えての所感:「所有から考えること」にどれだけの意義があるのか(稲木)

 本レポートでは、特別講師の講義後の感想で記述したことは繰り返さない。むしろ、全体のテーマであった「<所有>からアートと社会の関係を考える」こと自体について、言い換えれば、「所有から考えること」の意義について、批判的に考えてみたい。
そもそも、《法的レベル》で「所有する」/「所有しない」ことと、《感情レベル》で「所有する」/「所有しない」ことは別物である(そもそも《感情レベル》で「所有」を語ること自体に疑問を感じているがそれはとりあえず措く)。《法的レベル》である者の「所有」になっていても、必ずしも《感情レベル》での他の者の「所有」が妨げられるわけではない。知的所有権において議論される「共有」は、《法的レベル》というよりも、《感情レベル》の概念であって、一部の権利者に《法的レベル》での「所有」が集中し、多くの利用者の《感情レベル》の「所有」が妨げられていることから生じた問題と言うことができるかもしれないが、主として問題となっているのは、「所有」に由来する「利用」の側面であって、諸個人の《感情レベル》の「所有」を妨げないレベルにまで、《法的レベル》の「所有」のレベルを落とす、つまり、《法的レベル》の「利用」の枠を広げることで問題は解決しようとしている。よって、権利の《法的レベル》の「所有」は権利者にとどまり、権利の《法的レベル》の「利用」が非権利者にも広げられているだけである。ロックに由来するような「自己所有権」を見直すといっても、《法的レベル》での「私的所有」そのものを無にすることにはならず、《法的レベル》の「私的所有」の枠内で、《感情レベル》の「共有」を実現していくことが可能であり、《法的レベル》の「共有」に話が展開しているわけではない。
「アート」が《感情レベル》である集団によって「共有」されていると言うことができるかもしれないが、「共有」のされ方(「アート」の受容の仕方)が一様ではないため、集団全体によって厳密に「共有」されていることを意味しないうえに、集団は「社会」と同義ではない。さらに、《感情レベル》である「文化」の受容の仕方を「共有」することは、《法的レベル》で強制づけることは全く不可能ではないが望ましくない。誰も「アート」の受容の仕方(《感情レベル》での「共有」)を強制づけられるべきではない。それを可能にするのは個人の主観的な感情だけである。立岩氏も北田氏も、厳密な思想は異なるが、ともに個人の権利(自由)を重視する点で共通点があり、個人の自由な選択を重視する。そこでは、「アート」も選択肢の一部であり、それが本当に自由になされているのであれば、「アート」の受容の仕方(「アート」を選択しないことを含む)は自由である。
よって、《法的レベル》でも《感情レベル》でも、「所有」から「アート」と「社会」の関係を考える意義は極めて限られているのではないだろうか。むしろ、本ゼミナールの特別講師から得られたのは、「他者によって自由を奪われること」への警戒であって、「自由」から「アート」と「社会」の関係を考えたことにならないだろうか。私が「アートと社会の関係」ということで最も考慮すべきと考えるのは、「社会」における「アート」の位置づけである。「社会」のすべての者によって《感情レベル》で「共有」されることが可能なのは、「すべての者が文化的に生きる権利をもっている」ということだけであって、「アート」だけが「社会」と関係しているのでも、「アート」だけが「社会」的な意義をもっているのでもない。「アート愛好者」はその選好を、「他の文化の愛好者」はその選好をというように、それぞれが「住み分ける」ことが望まれるのであれば、「それぞれ好き勝手にやってください」で終わってしまう。しかし、それでは、「社会」が選好によって分断されるのを容認するだけであり、「社会」全体にとって望ましい結果にはならない。そのように思う人は、多かれ少なかれ、コミュニタリアンであろうが、このような考えにとって重要になってくるのが「文化多様性」あるいはそのコロラリーとしての「文化間対話」という概念だと考えている。
結局、「アート愛好者」が「他の文化の愛好者」のことを、「他の文化の愛好者」が「アート愛好者」のことを、共感しないまでも相互に尊重(理解)しあうことでしか、「社会」全体は語り得ないのではないか。あるいは、「アート」という文化形態にしか存在しない(あるいは他の文化形態と比して大きな)「社会」的価値が存在するのであれば、その点を突き詰めることにこそ、「アート」を「他の文化」から切り離して論じる意味があるのではないか。私自身、「アート」にそのような価値がないとは思っていない。だとすれば、「所有から考える」ことよりも、「アートから考える」(例えば、「アート」とはどういうものか?)ことから、「所有」や「社会」のあるべき形を考えていく方が良いのではないかと考えている。全くの個人の自由によって処分されるべきでない「アート」が存在する可能性があるのかもしれない。このことも、今日の「アート」の多様なあり方を考慮したうえでしか、「所有」や「社会」は論じられないのではないだろうか。

「所有ゼミ」を終えての所感:「言葉と関係性について断片的に考えること」(石黒)

                          
 今年度〈所有〉を意識し始めるようになって、現段階で私が帰着している点は、言葉が〈所有〉している、していない意識に大きく関わるということです。
 このゼミナールで議論を進めるうちに、それ自体を「わたし」がことばで捉えて初めてその存在を言葉で捉えてその存在を考えるようになり、議論を通して度合いの深さと範囲の広さには差異があることを知り得ました。
 「基準。実在的なものとは、語る主体が何らかの度合いで意識しているもののことだ。彼らが意識するものがすべてであり、意識できるもののほかは何でもない。」(『形態論』[157]※)
不勉強のため、ここで語る術を持っていませんが、ソシュールは再読してみようと思っています。ゼミナールのキーワードの「アート」について、個人としての個々の作品への嗜好は別問題ですね、私自身の問題意識は希薄のまま終わりました。「アート」と「芸術」の違いも、どの言語で語るかという概念のバイアスをより明確に感じることができました。言葉に引き寄せて考えると、全く意識していなかったものも、敢えて「アート」と呼んで広めていくことで、アートとして認められる状況が成り立っています。いかに人々の関心を集めるか、その仕掛けの複雑さに作品そのものよりも目がいってしまうこともあります。

 意識に関連して述べるならば、特別講義で北田暁大氏が、閉塞感も自覚している点で問題の8割はクリアできており、むしろ自分がネガティブな状況に置かれている認識からも外れてしまっている社会の外部について、議論を進めるべきと回答されていたことは、示唆的でした。デジタルネイティブといわれる世代の時代が到来して、「社会」も非常に相対的、あるいは仮想現実的になってくると人と人のつながりや、信頼感とはなにかを、印象論ではない方法で検証していく必要を感じています。
今は、多様性を受け入れ、なにかに衝突せず順応していける人が生きやすいかも知れません。しかし、アートは普遍性の時代にあっても、それを超えた積極的な差異を生みだせるエネルギーをもっていかないと作品としての強さにはならないのではないか、とぼんやり考えながら、まとめのときを迎えてしまいました。このゼミナールに参加してさまざまの思考のきっかけは掴むことができました。今後の課題としていきたいと思います、ありがとうございます。
 ※ 「沈黙するソシュール」 編・訳 前田英樹

〈所有〉ゼミの一年目を終えて(曽田修司)

 ゼミナール「〈所有〉からアートと社会の関係を考える」
の一年目が終了した。
 そもそも、このゼミを始めるときの私の関心は、アートの社会的位置づけをどのようなものとしてとらえるか、というところから出発していた。
 「アートと社会の関係」と言ったときに、「社会」という言葉の指し示す領域やその内実がさまざまであって、一義的に社会の性質を確定できないという事
情があるのは当然である。だが、ゼミを始めるときに、私が、その「当然である」という認識を、今と同じように持っていたかと言えば、そうではなかったと
言わざるを得ない。「社会」のあり方を、複眼的な視点を持って再考し検証するという態度が、「アートと社会の関係を考える」際に強く要請されていると言
えるだろう。
 その際、どのような〈所有〉が前提とされている社会であるか、という視点を入れると、そこで対象としている社会の性質が相当程度特定されることにな
り、そこから、その社会の中のアートの存在のあり方も特定される。つまり、アートと社会は、他の要素から影響を受けない独立の存在ではなく、アートと社
会がともに存在している平面の外にある〈所有〉という変数の影響によって平面内の関係性が変化する、といった体のもののように私には思われた。
 このゼミの前身である東京大学文化資源学公開講座「市民社会再生」においては、「〈所有〉からアートの公共性を考える」というテーマで議論を進めた。
そこで〈所有〉と表記したことの含意は、近代の「私的所有」に限定されないさまざまな所有のあり方を検証することによって、アートに公共性があることを
確かめようとするものだった。この公共性とは、市民社会の公共性という意味であり、そこでの議論の多くは「私的所有」を疑い相対化することに公共性を見
いだそうとするものであった。
 そのことが間違っていたわけではないと思うが、しかし、いま考えると、それだけではなく、歴史的に「私的所有」の概念が導入され確立されることによっ
て生み出された公共性というもののあり方に目を向けることが相対的に少なかったのではないかと感じる。その点を再検討する必要があろう。
 所有の時代は終わり、「接続と承認の象徴としての共鳴」が重視される時代になったとの指摘もある(佐々木俊尚「キュレーションの時代」)。
 国家でも市場でも従来的な地縁的共同体でない共同体がインターネットウェブを介した共同体として急激に生成しつつある今日、市民社会のあり方、あるい
は、「自由」や「正義」といった理念そのものが大きな変容を遂げていると考えるのが自然であろう。
 そのあたりのことを来年度もう一年をかけて探ってみたいと考えている。