2011年5月1日日曜日

「所有ゼミ」を終えての所感:「言葉と関係性について断片的に考えること」(石黒)

                          
 今年度〈所有〉を意識し始めるようになって、現段階で私が帰着している点は、言葉が〈所有〉している、していない意識に大きく関わるということです。
 このゼミナールで議論を進めるうちに、それ自体を「わたし」がことばで捉えて初めてその存在を言葉で捉えてその存在を考えるようになり、議論を通して度合いの深さと範囲の広さには差異があることを知り得ました。
 「基準。実在的なものとは、語る主体が何らかの度合いで意識しているもののことだ。彼らが意識するものがすべてであり、意識できるもののほかは何でもない。」(『形態論』[157]※)
不勉強のため、ここで語る術を持っていませんが、ソシュールは再読してみようと思っています。ゼミナールのキーワードの「アート」について、個人としての個々の作品への嗜好は別問題ですね、私自身の問題意識は希薄のまま終わりました。「アート」と「芸術」の違いも、どの言語で語るかという概念のバイアスをより明確に感じることができました。言葉に引き寄せて考えると、全く意識していなかったものも、敢えて「アート」と呼んで広めていくことで、アートとして認められる状況が成り立っています。いかに人々の関心を集めるか、その仕掛けの複雑さに作品そのものよりも目がいってしまうこともあります。

 意識に関連して述べるならば、特別講義で北田暁大氏が、閉塞感も自覚している点で問題の8割はクリアできており、むしろ自分がネガティブな状況に置かれている認識からも外れてしまっている社会の外部について、議論を進めるべきと回答されていたことは、示唆的でした。デジタルネイティブといわれる世代の時代が到来して、「社会」も非常に相対的、あるいは仮想現実的になってくると人と人のつながりや、信頼感とはなにかを、印象論ではない方法で検証していく必要を感じています。
今は、多様性を受け入れ、なにかに衝突せず順応していける人が生きやすいかも知れません。しかし、アートは普遍性の時代にあっても、それを超えた積極的な差異を生みだせるエネルギーをもっていかないと作品としての強さにはならないのではないか、とぼんやり考えながら、まとめのときを迎えてしまいました。このゼミナールに参加してさまざまの思考のきっかけは掴むことができました。今後の課題としていきたいと思います、ありがとうございます。
 ※ 「沈黙するソシュール」 編・訳 前田英樹

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