2011年5月1日日曜日

〈所有〉ゼミの一年目を終えて(曽田修司)

 ゼミナール「〈所有〉からアートと社会の関係を考える」
の一年目が終了した。
 そもそも、このゼミを始めるときの私の関心は、アートの社会的位置づけをどのようなものとしてとらえるか、というところから出発していた。
 「アートと社会の関係」と言ったときに、「社会」という言葉の指し示す領域やその内実がさまざまであって、一義的に社会の性質を確定できないという事
情があるのは当然である。だが、ゼミを始めるときに、私が、その「当然である」という認識を、今と同じように持っていたかと言えば、そうではなかったと
言わざるを得ない。「社会」のあり方を、複眼的な視点を持って再考し検証するという態度が、「アートと社会の関係を考える」際に強く要請されていると言
えるだろう。
 その際、どのような〈所有〉が前提とされている社会であるか、という視点を入れると、そこで対象としている社会の性質が相当程度特定されることにな
り、そこから、その社会の中のアートの存在のあり方も特定される。つまり、アートと社会は、他の要素から影響を受けない独立の存在ではなく、アートと社
会がともに存在している平面の外にある〈所有〉という変数の影響によって平面内の関係性が変化する、といった体のもののように私には思われた。
 このゼミの前身である東京大学文化資源学公開講座「市民社会再生」においては、「〈所有〉からアートの公共性を考える」というテーマで議論を進めた。
そこで〈所有〉と表記したことの含意は、近代の「私的所有」に限定されないさまざまな所有のあり方を検証することによって、アートに公共性があることを
確かめようとするものだった。この公共性とは、市民社会の公共性という意味であり、そこでの議論の多くは「私的所有」を疑い相対化することに公共性を見
いだそうとするものであった。
 そのことが間違っていたわけではないと思うが、しかし、いま考えると、それだけではなく、歴史的に「私的所有」の概念が導入され確立されることによっ
て生み出された公共性というもののあり方に目を向けることが相対的に少なかったのではないかと感じる。その点を再検討する必要があろう。
 所有の時代は終わり、「接続と承認の象徴としての共鳴」が重視される時代になったとの指摘もある(佐々木俊尚「キュレーションの時代」)。
 国家でも市場でも従来的な地縁的共同体でない共同体がインターネットウェブを介した共同体として急激に生成しつつある今日、市民社会のあり方、あるい
は、「自由」や「正義」といった理念そのものが大きな変容を遂げていると考えるのが自然であろう。
 そのあたりのことを来年度もう一年をかけて探ってみたいと考えている。

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