2010年12月20日月曜日

憲法25条の「文化的生活」って何よ? 

ゼミがスタートして直ぐに、国が取り組む「文化芸術振興」の政策的根拠の大元として
「憲法25条」のことがMLでさまざまに意見交換されました。

なぜだか、力強く「芸術は大切だ!」と叫びきれない気持ちを、
なんとか憲法に託そうとしつつ、…ちょっと違うんじゃない的コメントも多し!

◆PHさんのコメント(抜粋)
憲法25条だとか、朝日訴訟判決で示される文化権と、
文化芸術振興のためのなんじゃら、と言われるような
私たちが考えるアートあるいは芸術って、全然違うんじゃない?


【憲法第25条】
1. すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
2. 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛
生の向上及び増進に努めなければならない。

ナカムラさんの指摘によると、
ここで「学問の自由だけでなく「芸術の自由」も入れるべき」
といった学者がいたとのこと。
素晴らしいけど、結構無茶な気もするなあ。

ここで、芸術って言葉の解釈のされ方を見てみます。

【大辞林=平成22年】
(1)特殊な素材・手段・形式により、技巧を駆使して美を創造・表現し
ようとする人間活動、およびその作品。建築・彫刻などの空間芸術、音
楽・文学などの時間芸術、演劇・舞踊・映画などの総合芸術に分けられ
る。(2)芸・技芸。わざ。

【婦人家庭百科事典=昭和12年】
広義には、人間の技術一切をいう。今日最も普通にいう芸術の概念は、
美的効果を喚び起すべき生産活動及びその生産物、すなわち文学・音
楽・美術の総称であるが、最も狭義には美術の意味に用いられる。芸術
はまた精神的内容と共に、必ず客観的・具象的の表現を必要とする。

【言海=明治37年】
身に学び得たる文武の事(わざ)。

なんか、言海がいちばんじわっとくる気がする私は、
アート業界の端っこで、小さい声で、小さな背中で生きております。

◆TU氏のコメント(抜粋)
文化、うーん。芸術、うーん。

アメリカに支配された戦後言語空間の落とし子と現憲法を考える江藤淳は
割りとよく読んでますが、その発想は時代に追い抜かれたのではと、
不遜に考えたりしています。

新宿ー御茶ノ水カルチエラタンー本郷ー成田を全共闘で徘徊していた
昭和の時代が私にもあって。
そのころの突きつけられたテーマは「飢えた子供のまえで文学は可能か」(サルトル
大江健三郎 細部の言葉はあいまいですが)でした。

わたしがアートNPOの活動に共感を寄せたモチーフはあります。
そのひとつは死んでいる人より今を生きる人間が大事だ、
死んだ(失礼)泰西名画を飾っている有名美術館などいらねーな。
それよか越後の大地が美術館だ、AITの「24時間美術館」を応援しおうじゃ
ねーかと、与太ったのでした。

◆ヅさんのコメント(抜粋)
平田オリザさんは、2007年くらいに、エイブルアートの講演で、
憲法第25条を引き合いに出し、
「<健康で文化的な最低限度の生活を営む権利>とある
のに、精神的な健康に関係のある文化が軽視されずぎている。」と
いうようなことをおっしゃっていました。

平田さんの政策の根本には、この法律があり、
そこにはすでに、「芸術」も含まれているのでは、と思っています。

ちなみに、現在、文化庁ではパブコメ募集中ですね。
どうやら意見が少ないらしく、締め切り延期しています。

◆ヒデ高橋のコメント(抜粋)
この「憲法25条」系のやり取りの中で、
自分が思っていることにズバリ当てはまるコメント(小声(笑))を発見しました!

「…私自身はアートも好きだけど、
たぶん私の「好き」はこの業界では生ぬるすぎて認められないんだろうなー
という後ろめたさも感じていたりするので…」

これなんですね!
きっと、自分がこのゼミに参加する気持ちになったきっかけは。

劇場法、結構。文化省、いいじゃないですか。補助金大幅増額、素晴らしい。
…しかし、それは「許されるのか」という感覚ですね。

それは、「アート」がもつ「ウソ」のレベルが
「所有」や「マネー」や「「神」や「ゲーデル」や「天皇」や「幽霊」や・・・と比べて
まだ相当に低いからなんではないか・・・というのが、
このゼミに参加してわずか数週間の間に
自分が感じ始めている“仮説”ですかね。

◆ナカムラさんのコメント(抜粋)
私自身は「アート系によるアート至上主義の議論」は大切だと思っています。

とりわけ、劇場やギャラリー、美術館など、
まさにアートをダイレクトに扱う現場において、
自分のところで扱っている作品は素晴らしい!と熱く語れる、
その情熱がなければいい仕事はできないと思っています。

それが政策、になったときに気になるのは、
政策は実施されればアート系言語がわからない人にも影響を与えるものであり、
その実施に先立つ資源には
アート系からもそうでない人からも強制的に集められた税金が投入される、ということです。

なので、
「当該作品がアートとしてアートの世界で素晴らしい」という説明に加えて
「「アートとして素晴らしい」当該作品があることが社会にとっても素晴らしいことなのだ」という説明も必要だと思うのです。

その説明をだれがすべきか、という話になったときに、
必ずしも芸術家本人である必要はないとは思っていますが・・・
(芸術家の場合、言葉で語れないから作品で表現するのだと思うので)
誰が説明するにせよ、丁寧に段階を踏むコミュニケーションだよな、とは思っているので、
「アートとして素晴らしい」作品”だから”社会にとっても素晴らしい、と
一足飛びに言われてしまうと、ちょっと部外者に不親切な省略の仕方かな、と思うわけです。
そう考えると気になるのは、

アート村の議論がいけない、というよりも、
「アート好き・アート系に共有されている議論」と「非アート系とも共有できる議論」
の話し分けができていない、
特に前者において後者と前者の違いをはっきりさせないまま「公共性」とか言っちゃうところなんだと思います。

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