2010年12月22日水曜日

「もつ」と「ある」って?

ゲストスピーカーの立岩真也氏の著作の中に、障がい者をテーマにしたものがあったことなどもあり、
MLで活発な意見交換があったのですが、その中に「障害」「障碍」「障がい」といった表記の問題と
同時に、障がいを「もつ」のか障がいが「ある」のかというテーマが議論を呼びました。

◆PHさんのコメント(抜粋)
障害をもつ・障害のある、の話題を少し続けたいものです。

ヅさんのお書きになったのは、以下の内容。
> ちなみに、どなたかのメールに「障害をもつ」といういい方がありましたが、「障害は持ちたくてもっているのではない。」ということから、「障害がある」という方のほうが無難らしいです。わたしたちが組織している団体の場合、20年近い紆余曲折から、公では、「しょうがいのある人」という、いい方をしています。

ヒデ高橋さんのお書きになった返信は、次の通り。
> なるほど、「障害がある」というべきで、実は「障害」もよくなくて・・・(中略)
この「ある」と「もつ」の差の問題は、結構大きいようなので、 図らずもその落とし穴に落ちた気分です。

たぶんヅさんはヒデ高橋さんの批判をされたというよりも、
問題提起をなさったんだと思うんです。
Kさんが、ご自身の活動の中で、相当、矢面に立たされたり、
悩まれたりしたんだろう、というところが「紆余曲折」
「公では」「無難らしいです」という言葉にあらわれてます。

単純な言葉狩りに何の意味もない、自分の認識が真っ当ならいいんだ、
というのを乗り越えて、さあなんて書こうかと考えたら、
やっぱり悩んじゃう時があるかもしれない。

私は、よく特別支援学校(むかし養護学校といわれてた)に
アーティストと仕事で出かけるのですが、しばしば失語症になります。
先生と話していても、隔靴掻痒です。
「ここのクラスの子たちは、普通の子にくらべて、いや、
一般の、じゃなくて、普通級の子にくらべたときに伝わらない、
いや伝わるんだけど、特別な支援を必要とするわけですから…」
先生も、ひそひそ声で「ええ、けっこう《重い》ですから」。

障害者の芸術関連で、エイブルアートだとか、
アウトサイダーアートという呼び名がありますが、
使い方をひとつ間違えば、党派性の中に落ち込んだりする危険もある。
だけど、高橋ヒデさんがいわれたように
「ある」と「もつ」の差の問題は、もう一度、考えられてしかるべきな気がします。

◆ヅさんのコメント(抜粋)
しょうがいのある、もつというのは、当事者でない限り、気づかないくらいの、一見些細な差異であり、指摘されると誰でもびびります。

でも、通常の日本語的には、「しょうがいのある」という言葉はちょっと特殊な気持ちがしますし、また、「しょうがいを持つ」といったときには、「障害者」というよりも、だいぶ、相手を考えて使った言葉だったりするので、なおさら、びっくりします。

でも、いわれてみれば、たしかに「ある」と「もつ」は大きな違いで、所有との関連もあるかなあと思って、指摘してみました。
以前、自閉症の研究にはまった友人が結婚したときに、「どうせ子供ができるなら自閉症児がほしい」といいました。

「障害は個性だ」とか「障害があってよかった」という言い方がありますが、通常「障害児がほしい」「障害者になりたい」とはいわないですよね。

「ある」と「もつ」にはそれぐらいの隔たりがあるのではないか、、、とふと思ったりしました。
思いつきです。

◆ULさんのコメント(抜粋)
障害にかかわる「もつ」と「ある」の議論、興味深く拝読しました。少し「所有」議論とは話がそれてしまいますが、安部公房は異常/正常という概念の無根拠性・不確実性を問う試みを作品の中で行った作家でした。彼の代表作とみなされている「砂の女」「他人の顔」がまさにその成果です。

砂の女の主人公・仁木順平は、妻帯の教師ですが、再発を繰り返し完治に相当の根気を要する慢性淋疾を患い、子どもを望む妻との性生活に破たんを来して別居中の男です。なぜ彼が妻との性交を拒むのかというと、当時(作品世界は1950年代)の医療水準では「外妊といえば淋疾」と言われたくらいに、淋病感染した女が子宮外妊娠で出血多量で死亡する事例が多くあったからです。医者は彼に淋病の完治を宣言しますが、彼は毎回自身の尿を試験管にとり、そこに淋糸らしきものを発見して、到底完治したとは信じられない。妻から愛想を尽かされた男は、傷心の果てに新種のニワハンミョウの発見に没頭します。自らの肉体を嫌悪する男は、せめて自分の名前を歴史に残したいと望んだのでしょう。そして昆虫採集に訪れた砂丘で砂穴に捕獲され、「砂の女」との奇妙な共同生活がはじまります・・・。来る日も来る日も砂を掻くだけの単調な生活の中、しかも「自分は違法に拘禁されている」という被害者意識から、男はその砂穴の女とは加害者意識を持つことなく性交を行うことができ、いつしか夫婦然となり、ささやかな幸せさえ感じますが、結局女は子宮外妊娠で大量出血して、遠からず死ぬ運命が暗示されたところで物語は閉じられます。(と、私は読みます)

それはさておき、物語では男の、自身の肉体への嫌悪感との葛藤が描かれています。男は淋病に毒された肉体を許容(?)することができない。しかし砂の女は、そんな男の肉体をとても愛してくれる。その愛に癒されるかのように、男の認識には動揺が生じる。そんな中での自己内対話の場面のセリフです。(と、私は読みます)


(裁判長閣下、求刑の内容をお教え下さい!/すると、霧の中から、聞きおぼえのある声が返ってくる。/(男色が一パーセントなら、女の同性愛も、当然、一パーセントだ。そらから、放火癖が一パーセント、酒乱の傾向のあるもの一パーセント、精薄一パーセント、色情狂一パーセント、誇大妄想一パーセント・・・)(わけの分からん寝言はやめてほしいな。)(まあ、落ち着いて聞きなさい。高所恐怖症、先端恐怖症、麻薬中毒、ヒステリー、殺人狂、梅毒、白痴・・・各一パーセントとして、合計二十パーセント・・・この調子で、異常なケースを、あと八十例、列挙できれば・・・むろん、出来るに決まっているが、人間は百パーセント、異常だということが、統計的に証明できたことになる。)(なにを下らない!正常という基準がなけりゃ、異常だって成り立ちっこないじゃないか!)(後略)

「おまえは一体、誰なんだ!」という男の叫びに返答はありませんが、むろん、この「聞きおぼえのある声」の主は彼の肉体です。淋病感染により正常の圏外に弾き出されたことへの劣等意識が、男を肉体の捨象へと向かわせましたが、他方、肉体の側は、正常/異常という弁別自体の無根拠性を主張し、男に和解を迫るのです。。。


話が長くなりすみませんが、安部はこうした問題を、本当に真剣に真っ向から考えていました。しかし、「砂の女」における男の淋病不完治というのは、ある意味、人間の陥る絶対的な孤絶状況、という点ではまだまだ甘さがありました。なぜなら、淋病の不完治は個人にとっては生き死ににかかわるほどの絶望の原因となりますが、赤の他人の眼にはそうとは映らないからです。そうしたことから、次に安部が「他人の顔」において描いたのは、実験の失敗から顔全体がケロイド状になり、いわば顔をなくした男が陥った絶対的な孤絶状態から、どのように他者への回路を発見し得たのか(あるいはし得なかったのか)という問題でした・・・。


正常・異常の問題だけにかかわらず、安部はあらゆる概念の無根拠性を作品の中で告発しつづけました。(「にんげん」「階級」「天皇制」「資本主義」等々、すべて「幽霊」であると)しかし、そのように固定観念の破砕を次々とやってのけた安部に対して、年長の友人であった椎名麟三は苦言を呈しました。君がどんなに鮮やかにそうした問題を論破しようとも、そういう君自身もまた、君が「幽霊」だと言って笑う、その概念で構築された世界の中でしか生きられないのだ、君はそれらに翻弄される人々を喜劇化し、あたかも自分一人全知の視点に立っているかのように見えるけれど、そういう自分もまた彼らと同じ運命を免れない、という認識に基づいた彼らへの愛が欠けているのではないか、と。よくはわかりませんが、安部はこの指摘が相当堪えたようでした。

安部の論理にしたがえば、「美」の概念も当然「幽霊」であるわけで、短いエッセイではありますが、それを意図したような論も一部あります。(たしか「花はなぜ美しいのか」、花を美しいと感じるような感性はまやかしだ!と主張していたような。ここまで行くと、ほとんどへそ曲がりになってしまいますが。)

◆LKさんのコメント(抜粋)
英語ではどのように表現するのか?

「障害をもつ」「障害は持ちたくてもっているのではない。」という文章をきっかけに、
→そもそも、なぜ「障害」は「もつ」というcollocationが多く見受けられるのか?
→もしかしたら、「もつ」は英語の"have"に由来する?英語ではどう表現するんだったかな?
→こんなにあるんだ!

例:寺島彰「障害を表す英語の表記」http://www.dinf.ne.jp/doc/japanese/prdl/jsrd/norma/n302/n302017.html

→それにしても、改めて見ると、"have"はすごい単語だなぁ...(http://ejje.weblio.jp/content/have)。

...等々、様々な疑問や考えが、頭の中とGoogle上でスピンオフしてしまいました。

さらにスピンオフですが...今までに、短期も含めて10個程アルバイトをしましたが、
職場における使用禁止表現("暗黙のルール"も含めて)について考える機会が多かったです。

「障害をもつ」「障害は持ちたくてもっているのではない。」の議論に近い例としては、
「右手に見えますのは」「左手にございますのは」等と用いられる、「ー手」。
手のないお客様に不快感を与える恐れがあるため、「右側/左側」と言うよう、研修時に指導されました。

◆JLさんのコメント(抜粋)
ちなみに、先に紹介した2009年の社会権規約委員会の一般的意見では、障害者をperson with disabilities と形容しています。

 さらに興味深いのは、「特別の保護を必要とする人およびコミュニティ」という枠で、
 -女性
 -こども
 -老人
 -障害者
 -マイノリティ
-移民
-先住民
 -貧困者
を挙げているところです。

委員会の認識としては、これらの「人およびコミュニティ」は、他のカテゴリーの「人およびコミュニティ」より、「文化的生活に参加する権利」の享受が難しく、そのため、各政府が彼ら/彼女らの権利を十分に保障するために、特別の措置をとる必要があると考えているようです。

 障害者については、このゼミのみなさんの関心に入ってきていますが、ほかの「人およびコミュニティ」への特別な措置も、文化的生活の“平等な”保障のために必要なのだと思っています。

 この中でも、個人的には、貧困者(Persons living in poverty)がきにかかっていて、この点で、蔭山さんなどが関わっているホームレスとの活動は大きな意義があるなと思っています。

◆ヅさんのコメント(抜粋)
1998年~1999年に、サンフランシスコの障害者アートセンターにレジデンスしましたが、そのときからすでに、disabledという言い方もありましたが、person with disabilitiesが一番推奨される表現でした。
1990年にアメリカ障害者法(ADA)が制定され、その前後が一番、アメリカのしょうがい者の様々なことが変わった時期だったのではないかと思います。

当時は、「「適切な表現」はすぐ変わるので、気をつけたほうがいい」と聞きました。
ちなみに、当時、そのアートセンターに関わる、アーティストティーチャー(地元のアーティストのことで、しょうがいのある人たちはアーティストスチューデントとよばれてました)などスタッフの3割近くがゲイ&レズビアンでした。

シティーカレッジでティーチャーとして働いていたレズビアンの友人は、「シティーカレッジの関係者のほとんどがゲイ&レズビアンなので、履歴書にレズビアンと書いたほうが就職や昇進に有利だっていわれたけど、そんなの書きたくないよ~」といっていました。

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