2010年12月22日水曜日

寄付税制って「アート」のためになるの?

寄付税制に関する新聞記事を発端に、
「アート」と寄付税制の関係についての議論が
MLで盛り上がりました。


◆PH氏のコメント(抜粋)
ここで「共同体」を考えさせられるニュースが出てきたので
ご紹介しておきます。

「新しい公共」関連で、NPOをはじめとした寄付税制の
いじくりが検討されているかと思いますが、
ジャーン。なんと国本体も寄付を受け付け始めるとか。
個人的には、お前がしゃしゃり出るなという感じですが。

日本経済新聞電子版 2010/8/7 13:31
「もっと国に寄付を」 政府、歳入増へ自粛転換検討

◆ナカムラさんのコメント(抜粋)
「個人的には、お前がしゃしゃり出るなという感じですが。」に
思わず笑ってしまいました。

でも面白い記事ですよね。

・国の借金返済に限定する案
はまだわかるし、

個人的にはそれでお金持ちが赤字国債から日本を救ってくれるなら
それはそれで良い話だ、という気もします。

・各省庁による特定の政策に充てる名目で寄付を募る案
となると、

寄付によって政策を選ぶことが事実上可能になるわけですよね。
これはかなり面白い話になってくるのではないでしょうか。

◆JOさんのコメント(抜粋)

900兆円もある借金、どんな太っ腹なお金持ちが出してくれても焼け石に水ですね。
これまでのバラマキだ、ハコモノだの失策にお金を出してくれる人がいるとも思えないです。
特定の政策に充てるというのは面白いですね。

ちょっと前に定額給付金というバラマキがありましたが、あれは受け取りに行かないと国に返還されてしまうので、受け取りを拒否する人は生活や就労が困難な人々への支援のために横浜市に寄付してください、って集まったお金が約1億円。横浜市によると財政難で歳出削減した分がちょうどこれで復活できたそうです。ちなみに単純に人口比で国レベルを想像してみると35億円。やっぱり借金を減らすというよりは特定目的というのが現実的ですね。

子ども手当が始まるときに、なぜ一律支給で、高額所得者世帯には必要ないのじゃないかという質問に、文科省の副大臣はその分を寄付してほしいからって答えてましたけど、聞こえてないですよね~。

◆ヒデ高橋のコメント(抜粋)
「寄付」の問題っていうのは、
ちょっと別の脈絡でずっと気になっていることがあるんで、
横車風ですが・・・からませて下さい

それは…
Q: なぜ、アート関連の人(特に演劇の人)は、「ヨーロッパでは」という
   話ばかりするのか?

…ということなんですね。
「寄付」といえば、アメリカだと思うんです。
実際、なんだかんだで10年近くアメリカで税金払ってきた高橋も、
毎年小切手切ってかなりいろんなところに寄付させてもらいました。
優遇税制はもちろん、寄付集めのノウハウもイロイロなものがあると思います。

ところが、
「アメリカの事例に学ぼう!」みたいなアート関連の人に
出会ったことがないんですね。
みなさん、「フランスでは」とか、「ドイツでは」みたいな発言が多い。
(たとえば、先日、静岡SPACの宮城芸術総監督は
1時間半のレクチャーの中で、20回以上ヨーロッパの事例に言及されましたが、
アメリカへの言及はゼロでした)

で、高橋の偏見で推測すると・・・
「ファンド・レイジングなんかやりたくない」
もっと、ハッキリいうと
「金持ちにゴマするのがいや」
いや、
「金持ちの存在自体を認めたくない」
・・・という感じのことがあるんじゃないかなという気がするんです。

でも、
金持ちたちに1億円を(気持ちよく)寄付させる方法と戦略が存在してこそ、
一般市民の1万円の(善意の)寄付が生きてくる…てことはないですかね?

ちょっと、偏った情報で、偉そうな発言になってしまいましたが、
「寄付」が「新しい公共」の大きな柱であることは、
前・鳩山政権でも確認されていることのはずなのに、
なんか、このあたりの議論が、水面下に埋もれているきがするんで、
この合宿やゼミの中でも、皆さんと意見交換できれば、ありがたいです。

◆JOさんのコメント(抜粋)
ヒデさんのQ は別トピックにもありましたね。
わたしもその答えを聞きたい一人ですが、ご意見がなかったように思うので、わたしの想像をつけ加えておきます。

寄付と言えばアメリカなのに、アートに関してなぜアメリカの事例が引き合いにだされないか。
アメリカでは税金は最低限の行政コストをまかなうため、その他の期待するサービスは個人が寄付することで成り立っています。

日本は今まですべてが行政サービスだのみ。ヨーロッパは北欧を別としてその中間だから参考にするのではないでしょうか。

それと、ヒデさんのおっしゃるように、お金持ちにゴマをするのがいや、とかお金持ちの存在自体を認めたくない、も大きいと思います。

イギリスでもお金持ちへの献金活動は活発だと思いますが、美術館のキュレーターがお金持ちとそのプライベートジェットでバーゼルへ乗り付けて買ってもらった作品が美術館に寄託されるアメリカへの違和感は強いと思います。


お役所へおねだりすることになんとも感じなくなってしまっていても、個人にに対してセールスマンのようにアタマを下げたくないみたいな。

お金がほしい、と言いながらお金やお金持ちを軽蔑しているところがあるかもしれません。芸術と較べるわけで。

本当の芸術家はそれでもいいかもしれませんが、運営の部分までもその感覚から抜け出せないのでは?

古今東西芸術はお金持ちの経済的援助のもとで発展したわけですが(もちろん現在はそれだけではないですが)、どこかで線路が枝分かれしちゃったみたいです。

「もつ」と「ある」って?

ゲストスピーカーの立岩真也氏の著作の中に、障がい者をテーマにしたものがあったことなどもあり、
MLで活発な意見交換があったのですが、その中に「障害」「障碍」「障がい」といった表記の問題と
同時に、障がいを「もつ」のか障がいが「ある」のかというテーマが議論を呼びました。

◆PHさんのコメント(抜粋)
障害をもつ・障害のある、の話題を少し続けたいものです。

ヅさんのお書きになったのは、以下の内容。
> ちなみに、どなたかのメールに「障害をもつ」といういい方がありましたが、「障害は持ちたくてもっているのではない。」ということから、「障害がある」という方のほうが無難らしいです。わたしたちが組織している団体の場合、20年近い紆余曲折から、公では、「しょうがいのある人」という、いい方をしています。

ヒデ高橋さんのお書きになった返信は、次の通り。
> なるほど、「障害がある」というべきで、実は「障害」もよくなくて・・・(中略)
この「ある」と「もつ」の差の問題は、結構大きいようなので、 図らずもその落とし穴に落ちた気分です。

たぶんヅさんはヒデ高橋さんの批判をされたというよりも、
問題提起をなさったんだと思うんです。
Kさんが、ご自身の活動の中で、相当、矢面に立たされたり、
悩まれたりしたんだろう、というところが「紆余曲折」
「公では」「無難らしいです」という言葉にあらわれてます。

単純な言葉狩りに何の意味もない、自分の認識が真っ当ならいいんだ、
というのを乗り越えて、さあなんて書こうかと考えたら、
やっぱり悩んじゃう時があるかもしれない。

私は、よく特別支援学校(むかし養護学校といわれてた)に
アーティストと仕事で出かけるのですが、しばしば失語症になります。
先生と話していても、隔靴掻痒です。
「ここのクラスの子たちは、普通の子にくらべて、いや、
一般の、じゃなくて、普通級の子にくらべたときに伝わらない、
いや伝わるんだけど、特別な支援を必要とするわけですから…」
先生も、ひそひそ声で「ええ、けっこう《重い》ですから」。

障害者の芸術関連で、エイブルアートだとか、
アウトサイダーアートという呼び名がありますが、
使い方をひとつ間違えば、党派性の中に落ち込んだりする危険もある。
だけど、高橋ヒデさんがいわれたように
「ある」と「もつ」の差の問題は、もう一度、考えられてしかるべきな気がします。

◆ヅさんのコメント(抜粋)
しょうがいのある、もつというのは、当事者でない限り、気づかないくらいの、一見些細な差異であり、指摘されると誰でもびびります。

でも、通常の日本語的には、「しょうがいのある」という言葉はちょっと特殊な気持ちがしますし、また、「しょうがいを持つ」といったときには、「障害者」というよりも、だいぶ、相手を考えて使った言葉だったりするので、なおさら、びっくりします。

でも、いわれてみれば、たしかに「ある」と「もつ」は大きな違いで、所有との関連もあるかなあと思って、指摘してみました。
以前、自閉症の研究にはまった友人が結婚したときに、「どうせ子供ができるなら自閉症児がほしい」といいました。

「障害は個性だ」とか「障害があってよかった」という言い方がありますが、通常「障害児がほしい」「障害者になりたい」とはいわないですよね。

「ある」と「もつ」にはそれぐらいの隔たりがあるのではないか、、、とふと思ったりしました。
思いつきです。

◆ULさんのコメント(抜粋)
障害にかかわる「もつ」と「ある」の議論、興味深く拝読しました。少し「所有」議論とは話がそれてしまいますが、安部公房は異常/正常という概念の無根拠性・不確実性を問う試みを作品の中で行った作家でした。彼の代表作とみなされている「砂の女」「他人の顔」がまさにその成果です。

砂の女の主人公・仁木順平は、妻帯の教師ですが、再発を繰り返し完治に相当の根気を要する慢性淋疾を患い、子どもを望む妻との性生活に破たんを来して別居中の男です。なぜ彼が妻との性交を拒むのかというと、当時(作品世界は1950年代)の医療水準では「外妊といえば淋疾」と言われたくらいに、淋病感染した女が子宮外妊娠で出血多量で死亡する事例が多くあったからです。医者は彼に淋病の完治を宣言しますが、彼は毎回自身の尿を試験管にとり、そこに淋糸らしきものを発見して、到底完治したとは信じられない。妻から愛想を尽かされた男は、傷心の果てに新種のニワハンミョウの発見に没頭します。自らの肉体を嫌悪する男は、せめて自分の名前を歴史に残したいと望んだのでしょう。そして昆虫採集に訪れた砂丘で砂穴に捕獲され、「砂の女」との奇妙な共同生活がはじまります・・・。来る日も来る日も砂を掻くだけの単調な生活の中、しかも「自分は違法に拘禁されている」という被害者意識から、男はその砂穴の女とは加害者意識を持つことなく性交を行うことができ、いつしか夫婦然となり、ささやかな幸せさえ感じますが、結局女は子宮外妊娠で大量出血して、遠からず死ぬ運命が暗示されたところで物語は閉じられます。(と、私は読みます)

それはさておき、物語では男の、自身の肉体への嫌悪感との葛藤が描かれています。男は淋病に毒された肉体を許容(?)することができない。しかし砂の女は、そんな男の肉体をとても愛してくれる。その愛に癒されるかのように、男の認識には動揺が生じる。そんな中での自己内対話の場面のセリフです。(と、私は読みます)


(裁判長閣下、求刑の内容をお教え下さい!/すると、霧の中から、聞きおぼえのある声が返ってくる。/(男色が一パーセントなら、女の同性愛も、当然、一パーセントだ。そらから、放火癖が一パーセント、酒乱の傾向のあるもの一パーセント、精薄一パーセント、色情狂一パーセント、誇大妄想一パーセント・・・)(わけの分からん寝言はやめてほしいな。)(まあ、落ち着いて聞きなさい。高所恐怖症、先端恐怖症、麻薬中毒、ヒステリー、殺人狂、梅毒、白痴・・・各一パーセントとして、合計二十パーセント・・・この調子で、異常なケースを、あと八十例、列挙できれば・・・むろん、出来るに決まっているが、人間は百パーセント、異常だということが、統計的に証明できたことになる。)(なにを下らない!正常という基準がなけりゃ、異常だって成り立ちっこないじゃないか!)(後略)

「おまえは一体、誰なんだ!」という男の叫びに返答はありませんが、むろん、この「聞きおぼえのある声」の主は彼の肉体です。淋病感染により正常の圏外に弾き出されたことへの劣等意識が、男を肉体の捨象へと向かわせましたが、他方、肉体の側は、正常/異常という弁別自体の無根拠性を主張し、男に和解を迫るのです。。。


話が長くなりすみませんが、安部はこうした問題を、本当に真剣に真っ向から考えていました。しかし、「砂の女」における男の淋病不完治というのは、ある意味、人間の陥る絶対的な孤絶状況、という点ではまだまだ甘さがありました。なぜなら、淋病の不完治は個人にとっては生き死ににかかわるほどの絶望の原因となりますが、赤の他人の眼にはそうとは映らないからです。そうしたことから、次に安部が「他人の顔」において描いたのは、実験の失敗から顔全体がケロイド状になり、いわば顔をなくした男が陥った絶対的な孤絶状態から、どのように他者への回路を発見し得たのか(あるいはし得なかったのか)という問題でした・・・。


正常・異常の問題だけにかかわらず、安部はあらゆる概念の無根拠性を作品の中で告発しつづけました。(「にんげん」「階級」「天皇制」「資本主義」等々、すべて「幽霊」であると)しかし、そのように固定観念の破砕を次々とやってのけた安部に対して、年長の友人であった椎名麟三は苦言を呈しました。君がどんなに鮮やかにそうした問題を論破しようとも、そういう君自身もまた、君が「幽霊」だと言って笑う、その概念で構築された世界の中でしか生きられないのだ、君はそれらに翻弄される人々を喜劇化し、あたかも自分一人全知の視点に立っているかのように見えるけれど、そういう自分もまた彼らと同じ運命を免れない、という認識に基づいた彼らへの愛が欠けているのではないか、と。よくはわかりませんが、安部はこの指摘が相当堪えたようでした。

安部の論理にしたがえば、「美」の概念も当然「幽霊」であるわけで、短いエッセイではありますが、それを意図したような論も一部あります。(たしか「花はなぜ美しいのか」、花を美しいと感じるような感性はまやかしだ!と主張していたような。ここまで行くと、ほとんどへそ曲がりになってしまいますが。)

◆LKさんのコメント(抜粋)
英語ではどのように表現するのか?

「障害をもつ」「障害は持ちたくてもっているのではない。」という文章をきっかけに、
→そもそも、なぜ「障害」は「もつ」というcollocationが多く見受けられるのか?
→もしかしたら、「もつ」は英語の"have"に由来する?英語ではどう表現するんだったかな?
→こんなにあるんだ!

例:寺島彰「障害を表す英語の表記」http://www.dinf.ne.jp/doc/japanese/prdl/jsrd/norma/n302/n302017.html

→それにしても、改めて見ると、"have"はすごい単語だなぁ...(http://ejje.weblio.jp/content/have)。

...等々、様々な疑問や考えが、頭の中とGoogle上でスピンオフしてしまいました。

さらにスピンオフですが...今までに、短期も含めて10個程アルバイトをしましたが、
職場における使用禁止表現("暗黙のルール"も含めて)について考える機会が多かったです。

「障害をもつ」「障害は持ちたくてもっているのではない。」の議論に近い例としては、
「右手に見えますのは」「左手にございますのは」等と用いられる、「ー手」。
手のないお客様に不快感を与える恐れがあるため、「右側/左側」と言うよう、研修時に指導されました。

◆JLさんのコメント(抜粋)
ちなみに、先に紹介した2009年の社会権規約委員会の一般的意見では、障害者をperson with disabilities と形容しています。

 さらに興味深いのは、「特別の保護を必要とする人およびコミュニティ」という枠で、
 -女性
 -こども
 -老人
 -障害者
 -マイノリティ
-移民
-先住民
 -貧困者
を挙げているところです。

委員会の認識としては、これらの「人およびコミュニティ」は、他のカテゴリーの「人およびコミュニティ」より、「文化的生活に参加する権利」の享受が難しく、そのため、各政府が彼ら/彼女らの権利を十分に保障するために、特別の措置をとる必要があると考えているようです。

 障害者については、このゼミのみなさんの関心に入ってきていますが、ほかの「人およびコミュニティ」への特別な措置も、文化的生活の“平等な”保障のために必要なのだと思っています。

 この中でも、個人的には、貧困者(Persons living in poverty)がきにかかっていて、この点で、蔭山さんなどが関わっているホームレスとの活動は大きな意義があるなと思っています。

◆ヅさんのコメント(抜粋)
1998年~1999年に、サンフランシスコの障害者アートセンターにレジデンスしましたが、そのときからすでに、disabledという言い方もありましたが、person with disabilitiesが一番推奨される表現でした。
1990年にアメリカ障害者法(ADA)が制定され、その前後が一番、アメリカのしょうがい者の様々なことが変わった時期だったのではないかと思います。

当時は、「「適切な表現」はすぐ変わるので、気をつけたほうがいい」と聞きました。
ちなみに、当時、そのアートセンターに関わる、アーティストティーチャー(地元のアーティストのことで、しょうがいのある人たちはアーティストスチューデントとよばれてました)などスタッフの3割近くがゲイ&レズビアンでした。

シティーカレッジでティーチャーとして働いていたレズビアンの友人は、「シティーカレッジの関係者のほとんどがゲイ&レズビアンなので、履歴書にレズビアンと書いたほうが就職や昇進に有利だっていわれたけど、そんなの書きたくないよ~」といっていました。

2010年12月20日月曜日

国際法からみた「文化」って?

国が取り組む「文化芸術振興」政策について、「憲法25条」の話題が盛り上がった後、
今度は国際法的観点からの論点がMLで意見交換されました。 

◆JL氏のコメント(抜粋)
2009年12月に社会権規約委員会の一般的意見21というものが公表されました。
一般的意見はこれで21番目ですが、一般に言って、一般的意見の解釈の影響力は大きく、各国の政策に大きなインパクトを与えています。

この一般的意見21は、文化的権利のなかでも最も重要な「文化的生活に参加する権利」を扱っている点でかなり注目されるのですが、この意見の中では、あらゆる人間がもっているこの権利を保護するために政府がしなければならないことをまとめています。


みなさんの議論とからめて面白いのは、委員会の「文化」の認識がかなり広いところです。
あくまで例示ですが、それでも以下のように「文化」に様々なものが含まれ、「アート」はそのなかの一部に過ぎません。

 ways of life; language; oral and written literature; music and song; non-verval communication; religion or belif systems; rites and ceremonies;
sport and games; methods of production or technology; natural and man-made environments; food; clothing and shelter and the arts; customs and traditions

政府は、国際法上、文化的生活への介入を控える(自由権的側面)一方で、文化的生活への参加を促進する積極的な行動(社会権的側面)を求められるのですが、上のように様々な形をとる文化的生活を保障することは求められていても、「アート」が特に特権視されているわけではありません。


ですので、平田氏が「精神的な健康」を叫んでいる点はよいとしても、「文化」=「アート」のような形で主張されている点、非アート系市民に納得できるものか疑問です。


仮に劇場法で劇場に対する公的支援を増やしたいなら、他の「文化」に比べ、「演劇」に支援が必要な納得できる理由を特に非アート系市民に示さなければならないと思っています。


すべての文化的生活を保障できれば言うことはないし、最終的な目標にはすべきと思いますが、他に支援を必要とする文化的生活を差し置いて「演劇」を支援する理由は果たして何か。現在の劇場法の議論のなかで、それを非アート系市民に説明し尽くしているとは思いません。現在の日本では、「文化」=「アート」と考える(考えさせられている)人が多いため、自分が文化的生活に参加しているという意識が少ないように思う。だからこそ、アート系市民中心の文化政策になりがちなのだと感じています。

「文化政策のアート系市民による占有問題」。これが私の考えたい最大の所有問題だったりします。

◆ヒデ高橋のコメント(抜粋)
「憲法25条」の次は「国連」まで登場してきて
もはや作為的な盛り上げなど必要ない感じですが、
しつこく、「うざい!」というお声覚悟で、少し書かせて頂きます。

「アートが社会にとって重要」あるいは「アートは公共である」という平田オリザ的言説は、
本当は論拠薄弱なる「ウソ」「幽霊」の類であり、
アートを生業としたい人、アートでしか生きられない人たち、
あるいは単純にアートを楽しみたい人たちが、
税金をぶんどってくるための「ネタ」である・・・と
まずは、軽く割り切るべきなのではないかという気がします。

ただ、他人の金を動かすわけですから、その「ネタ」たる「ウソ」は
あくまで人を信じ込ませてしまう程度の壮大なる「ウソ」でなければならないという
逆説説的な側面を内包していて、
単純に「アートは25条に含まれる」とか「国連もアートは入っていると言っている」とか
そういう話では、説得力ゼロ
・・・・このあたりは、OLさんやJLさんの意見と合致している気がします。

ただ、目的が、やはり「税金をアートにぶんどってくる」ということであるなら、
ここはひとつ、皆さんと一緒に、新しい壮大なる「ウソ」を構築せなばならない
・・・と、まあ、戦略的なアプローチも、今後のディスカッションの中に
入れられればな・・・と思っております。

つまり、障がいの「ある」人や、ホームレスの人、単純にアートが好きでもない人達にも、
「ああ、アートね、そこに税金つぎ込むのは当然だよ」と思わせるような、
アート版『不都合な真実』が必要なのではないかと (ま、あくまで、戦略的にですが・・・)

で、それが、作れないのであれば、変な悪あがきはやめて、
アメリカみたいに金持ちのパトロン探しをメインの戦略にすべきという結論になるでしょう

憲法25条の「文化的生活」って何よ? 

ゼミがスタートして直ぐに、国が取り組む「文化芸術振興」の政策的根拠の大元として
「憲法25条」のことがMLでさまざまに意見交換されました。

なぜだか、力強く「芸術は大切だ!」と叫びきれない気持ちを、
なんとか憲法に託そうとしつつ、…ちょっと違うんじゃない的コメントも多し!

◆PHさんのコメント(抜粋)
憲法25条だとか、朝日訴訟判決で示される文化権と、
文化芸術振興のためのなんじゃら、と言われるような
私たちが考えるアートあるいは芸術って、全然違うんじゃない?


【憲法第25条】
1. すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
2. 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛
生の向上及び増進に努めなければならない。

ナカムラさんの指摘によると、
ここで「学問の自由だけでなく「芸術の自由」も入れるべき」
といった学者がいたとのこと。
素晴らしいけど、結構無茶な気もするなあ。

ここで、芸術って言葉の解釈のされ方を見てみます。

【大辞林=平成22年】
(1)特殊な素材・手段・形式により、技巧を駆使して美を創造・表現し
ようとする人間活動、およびその作品。建築・彫刻などの空間芸術、音
楽・文学などの時間芸術、演劇・舞踊・映画などの総合芸術に分けられ
る。(2)芸・技芸。わざ。

【婦人家庭百科事典=昭和12年】
広義には、人間の技術一切をいう。今日最も普通にいう芸術の概念は、
美的効果を喚び起すべき生産活動及びその生産物、すなわち文学・音
楽・美術の総称であるが、最も狭義には美術の意味に用いられる。芸術
はまた精神的内容と共に、必ず客観的・具象的の表現を必要とする。

【言海=明治37年】
身に学び得たる文武の事(わざ)。

なんか、言海がいちばんじわっとくる気がする私は、
アート業界の端っこで、小さい声で、小さな背中で生きております。

◆TU氏のコメント(抜粋)
文化、うーん。芸術、うーん。

アメリカに支配された戦後言語空間の落とし子と現憲法を考える江藤淳は
割りとよく読んでますが、その発想は時代に追い抜かれたのではと、
不遜に考えたりしています。

新宿ー御茶ノ水カルチエラタンー本郷ー成田を全共闘で徘徊していた
昭和の時代が私にもあって。
そのころの突きつけられたテーマは「飢えた子供のまえで文学は可能か」(サルトル
大江健三郎 細部の言葉はあいまいですが)でした。

わたしがアートNPOの活動に共感を寄せたモチーフはあります。
そのひとつは死んでいる人より今を生きる人間が大事だ、
死んだ(失礼)泰西名画を飾っている有名美術館などいらねーな。
それよか越後の大地が美術館だ、AITの「24時間美術館」を応援しおうじゃ
ねーかと、与太ったのでした。

◆ヅさんのコメント(抜粋)
平田オリザさんは、2007年くらいに、エイブルアートの講演で、
憲法第25条を引き合いに出し、
「<健康で文化的な最低限度の生活を営む権利>とある
のに、精神的な健康に関係のある文化が軽視されずぎている。」と
いうようなことをおっしゃっていました。

平田さんの政策の根本には、この法律があり、
そこにはすでに、「芸術」も含まれているのでは、と思っています。

ちなみに、現在、文化庁ではパブコメ募集中ですね。
どうやら意見が少ないらしく、締め切り延期しています。

◆ヒデ高橋のコメント(抜粋)
この「憲法25条」系のやり取りの中で、
自分が思っていることにズバリ当てはまるコメント(小声(笑))を発見しました!

「…私自身はアートも好きだけど、
たぶん私の「好き」はこの業界では生ぬるすぎて認められないんだろうなー
という後ろめたさも感じていたりするので…」

これなんですね!
きっと、自分がこのゼミに参加する気持ちになったきっかけは。

劇場法、結構。文化省、いいじゃないですか。補助金大幅増額、素晴らしい。
…しかし、それは「許されるのか」という感覚ですね。

それは、「アート」がもつ「ウソ」のレベルが
「所有」や「マネー」や「「神」や「ゲーデル」や「天皇」や「幽霊」や・・・と比べて
まだ相当に低いからなんではないか・・・というのが、
このゼミに参加してわずか数週間の間に
自分が感じ始めている“仮説”ですかね。

◆ナカムラさんのコメント(抜粋)
私自身は「アート系によるアート至上主義の議論」は大切だと思っています。

とりわけ、劇場やギャラリー、美術館など、
まさにアートをダイレクトに扱う現場において、
自分のところで扱っている作品は素晴らしい!と熱く語れる、
その情熱がなければいい仕事はできないと思っています。

それが政策、になったときに気になるのは、
政策は実施されればアート系言語がわからない人にも影響を与えるものであり、
その実施に先立つ資源には
アート系からもそうでない人からも強制的に集められた税金が投入される、ということです。

なので、
「当該作品がアートとしてアートの世界で素晴らしい」という説明に加えて
「「アートとして素晴らしい」当該作品があることが社会にとっても素晴らしいことなのだ」という説明も必要だと思うのです。

その説明をだれがすべきか、という話になったときに、
必ずしも芸術家本人である必要はないとは思っていますが・・・
(芸術家の場合、言葉で語れないから作品で表現するのだと思うので)
誰が説明するにせよ、丁寧に段階を踏むコミュニケーションだよな、とは思っているので、
「アートとして素晴らしい」作品”だから”社会にとっても素晴らしい、と
一足飛びに言われてしまうと、ちょっと部外者に不親切な省略の仕方かな、と思うわけです。
そう考えると気になるのは、

アート村の議論がいけない、というよりも、
「アート好き・アート系に共有されている議論」と「非アート系とも共有できる議論」
の話し分けができていない、
特に前者において後者と前者の違いをはっきりさせないまま「公共性」とか言っちゃうところなんだと思います。

立岩真也氏 講義 事前勉強 / “立岩節”で「モテ論」

ゲストスピーカーの立岩真也氏の著作『人間の条件 そんなものない』(理論社、2010、20~21頁)文中の「できる」を「モテる」に置き換えてみたところ、能力主義と恋愛を巡る言説に、共通項が見出された。 ML上では「モテ」についての議論が盛り上がり…


ついに、「ニセ・立岩真也」が登場!?


=============
モテることはよいことか。たしかによいこともあるけれども、世間で思われているほどではない。モテなくても、愛だの恋だのと無縁でも、その方が楽だということもある。

だからといって、べつにモテないことを持ち上げようとは思わない。だれかに好かれるということがあるのなら、そのことを嬉しいと感じる気持ちはあってもよいと思う。

だがしかしこの社会では、このぐらいはもっともというところを超えて、モテることがよいことだということになっている。どのようにか。またどうしてか。
A:モテると得をすることがある。そのような仕組みの社会に私たちは生きている。
さらにB:モテることが自分の価値であるという価値がある。そんな価値観のある社会に私たちは生きている。

そして、私たちの社会は、AとBについて、それが当然であると、正しいことであるとしている。しかしそんなことはない。つまり、モテるから得をするのは当然のことではない。また、モテる人をほめてもよいが、それはそれ以上でも以下でもない。

ニセ・立岩真也でした

2010年11月26日金曜日

第一回 特別講義 講師:立岩真也先生「学芸に対する公金支出の正当化の困難について」

第一回 特別講義
「学芸に対する公金支出の正当化の困難について」

講師:立岩真也(立命館大学大学院先端総合学術研究科教授)
日時:10月25日(月)19:30-21:00
会場:早稲田(本部)キャンパス 26号館(大隈記念タワー)302会議室
ゼミナール講師:
曽田修司(跡見学園女子大学マネジメント学部、ITI事務局長)
藤井慎太郎(早稲田大学文学学術院、演劇博物館GCOE芸術文化環境研究コース)
主催:早稲田大学演劇博物館グローバルCOE芸術文化環境研究コース

立岩先生配布資料

活動報告:自主合宿

「討議」そのものの時間を確保し、ひとりひとりが<所有>をめぐる問題系についての
理解を深めることを目的に、10月10日〜11日にかけ、早稲田奉仕園にて自主合宿を行いました。

合宿の企画運営は受講生有志によって進められ、充実した2日間となりました。
今回はそのプログラムの一部をご紹介します。



ワークショップ:
合宿最初のプログラムは、アーティスト・いちむらみさこさんによるワークショップ。
「自分の体を存在させるために、絶対的に占拠する」をテーマに、野宿を体験しました。
まずは街を歩きながら、野宿の際に使えそうな「タダのもの」を探します。
そして入手した段ボール等を片手に、戸山公園へ。
まず、広場で段ボールや新聞紙を座布団に、いちむらさんよりホームレス生活についてお話を伺いました。
そして、いよいよ野宿体験。安全そうな場所、住み心地の良さそうな場所を自らで見つけ出し、実際に寝てみようという試みです。
公衆トイレの前、ベンチの上、木の根元、歩道...思い思いの場所に段ボールを広げ、ひとときの野宿体験をしました。


勉強会:
合宿中3回に渡って行われた勉強会では、白熱した議論が繰り広げられました。

合宿1日目には、特別講義(10月25日)のゲスト講師、立岩真也先生の著書『私的所有論』・『人間の条件』・『所有と国家のゆくえ』を
参考文献として利用した、グループディスカッションを行いました。

合宿2日目、最後の勉強会では、「それぞれがアートをどのように捉えているか」というテーマに発展。
参加者それぞれのアート観を共有、その多様性を認識すると同時に、
議論することの難しさと面白さを改めて実感しました。



次回の活動報告では、10月25日に行われた、立岩真也先生による特別講義についてお伝えいたします。

オリエンテーション配布資料

6月14日 第1回(オリエンテーション)の際に配布された曽田先生による資料を合わせて投稿いたします。



2010/6/14曽田修司(2010/10/10補訂)
オリエンテーション

何を問題としたいのか

■所有、アート、社会
〈所有〉のあり方が社会をどのように規定しているかについては、J・ロック以来、多くの議論の蓄積がある
経済学、哲学、社会思想史、政治学、社会学、etc.

■アートと社会
近年、アートと社会の関係についても、多くのことが語られるようになった
ほとんどの場合、アートは財(人間が所有し、利用するもの)として語られている(文化経済学、アーツマネジメント、文化芸術の振興)

■〈所有〉とアート
〈所有〉とアートが結びつけて語られることもある。
だが、そのようなとき、アートはあまりに一面的かつ固定的なものとして(すでに出来上がったものとして/商品として/利用されるものとして/影響されるものとして)語られてはいないか

■アートの問い直し
アートというもののあり方への問い直しが必要なのではないか
「自己」も「権利」も実体ではなく関係性に立脚した概念であるなら、アートもまた、実体ではなく関係性としてとらえられるべきではないか
アートの幅はもっと広く、アートの概念はもっとずっと可変的である

■〈所有〉からアートと社会の関係を考える
個人に与えられたもの(所有)(=権利、能力、など)が世の中のすべてのことがらの基底をなす実体であるという世界観(社会観)をまずは再評価し、さらに、その価値を根本から問い直すことは、どのようにして、あるいは、どこまで可能か

◆アートと〈所有〉の問題系(1)
アート作品の私蔵処分(J・L・サックス「レンブラントでダーツ遊びとは」)
博物館、美術館、劇場等の作品の選定を誰がするのか(公共財または「公共選択」の問題)
税金の使い方(びわ湖ホール問題、橋下「大阪維新」)
公共財/価値財
著作権/コモンズ
排他的権利
オリジナリティ/作家性

◆アートと〈所有〉の問題系(2)
ボランティア/NPO
寄付税制
共同財
貨幣ではなく、個人の意思や価値観(の所有/共有)が前提とされている

◆アートと〈所有〉の問題系(3)
〈所有〉はあらゆるものに関わる
能力とは何か
権利/人格/アイデンティティ/自由/公正/正義/国家/権力/支配/秩序/法律/規範/合意形成/公共性
共同体/倫理/生き方/自由・平等・友愛(博愛)
資本主義/市場主義/市民主義
自己/他者/無意識
言語/身体

◆アートと〈所有〉の問題系(4)
生き方を考える
わたしたちとは誰か
社会が想定している価値とは何か、目指すべき価値とは何か

フローとストック/時間軸を入れる
エコシステムとしての文化論

活動報告:第1回~第3回ゼミナール概要

6月よりスタートした当ゼミナールは、下記の内容で進めてまいりました。
今回は第3回までの概要を掲載いたします。


6月14日 第1回(オリエンテーション):
ゼミ概要説明及び、講師・受講生による自己紹介(関心や問題意識を持っているトピックについての発表)。


6月28日 第2回(読書会):
参考文献(岩井克人『資本主義から市民主義へ』、大庭健、鷲田清一編『所有のエチカ』、立岩真也『私的所有論』)の
気になるキーワードを付箋に書き出した後、

⒈「所有」をどのように問題化できるか?
2.それをアートとどう関わらせることができるか?
という問いを設定し、ディスカッション。


7月5日 第3回(読書会振り返りとゲストについての議論):
前半は第1回の感想、及び第2回以降気になった書籍やニュース等について発表。
後半はゲスト講師としてお招きしたい方について、その方のご活動がどのように「所有」と関係するかという観点からのプレゼンテーション。


教場外では、メーリングリストを用いた書籍・イベント・ニュース等について情報交換及びディスカッションが活発に行われました。

2010年7月13日火曜日

はじめまして

はじめまして。

このブログは
早稲田大学 演劇博物館 グローバルCOEプログラム 芸術文化環境研究コース
「<所有>からアートと社会の関係を考える」ゼミナール生が発信するブログです。


このゼミナールは、昨年度まで三年間、東京大学で開催されていた
文化資源学 公開講座
「市民社会再生」内、プロジェクト2「『所有』からアートの公共性を考える」
を、
同プロジェクトリーダーの曽田修司 跡見学園女子大学マネジメント学部教授とともに、

引き継いだプロジェクトです。

ゼミの活動にとどまらず、参加メンバーのゼミ外での活動についてなど
お知らせできればと考えております。

どうぞよろしくお願いいたします。