2011年4月11日月曜日

ゼミナール参加者感想文:立岩真也「学芸に対する公金支出の正当化の困難について」(2010/10/25)

ゼミナール参加者感想文

編:事務局 古賀 

【いなき】

 人はそれぞれの人生を歩み、それぞれの人生の幸福観は異なり、それを強制することは妥当ではない。この前提から考えた場合、立岩教授の言うとおり、いったん財を割り振ったうえで、「自分が大切だと思うもの」を選択・享受することをそれぞれの個人に任せるのは自然な考え方だと思う。立岩教授は、「芸術・学術に対する公金の支出を正当性を主張するのはかなり難しい」と言いつつ、「現実に不平等である限りにおいては、公的支出が支持される」として、その他の正当化理由(公共財、価値財、国家の威信、アートの手段化)に疑問をもつ一方で、所得の少ない者への現金での給付を支持する。もし、アートを享受したくても、所得が少ないなどの原因で、あきらめざるを得ない者がいるのならば、彼ら/彼女らのために公金支出を行うというのが、個人の平等という視点からは筋が通った政策だと思う。「芸術文化の振興」という抽象的で全体的な言葉が自明のように唱えられても、具体的で個人的なレベルで日本に住むすべての人が本当に文化的に生活できているのかが真剣に問われているように思えない現状への痛烈な批判とも考えることができるような気がする。「分配する最小国家」が保障する権利に文化に関する権利が入ってくるか微妙な問題であるが、国際社会では「文化的な生活に参加する権利」の研究が進みつつある。この権利において、「限られた範囲の人々の権利の充実」よりも「すべての者の権利の平等」を重視する傾向にあり、これは立岩教授の自由で平等な権利観と一致する。前者のための公金支出が正当化されるとすればどうなるか。「文化は大事」とは普遍的に言えるとしても、個々人がどの文化を大事に思うかは個人の主観的な選好の問題であって、「芸術を振興しなければならない」とはアプリオリには言えず、個々人の必要の強度に比例して振興の規模が決定されてくるのではないかと思う。芸術文化政策研究者や芸術愛好者はしばしばヨーロッパ諸国の文化政策と日本の文化政策を比較するが、そもそも、「日本人はヨーロッパ人が芸術を好きなのと同じ程度に芸術が好きか」どうかが問われてもいいと思う。また地域の文化政策を考えるとき、芸術を振興せず他の文化を振興する自治体があってもいいと思う。文化的表現の多様性が公金支出の正当化の理由になるかを質問したが、芸術の多様性が大事であっても、それを大切だと思う人がいなければ意味がないのではないか。文化的表現の多様性も文化振興と同じように、それ自体重要だというより、個々の表現を大事に思う人が存在してはじめて重要と言えるような気がする。立岩教授の講義から、個人の自由で平等な権利という視点から、文化に対する公金支出の問題を考えることの重要性を感じることができた。

【古 賀】

 先生にお話しいただいた翌週、受講生によるディスカッションにおいて、税金の一部の使い道を、納税者自身が選択できるようになればいいのではないか、という提案があった。しかし、もしも、その選択が可能になったとして、果たして、アートを好きだという人々や、アートに関わる人々は、税金の使い道として、アートを選択するのだろうか。

 税金とは異なる性質のものではあるが、卒業生や企業等からの美術・芸術大学等への寄付金は一つの指標になりうるのではないか—例えば、やや飛躍してしまうが、美術に関わった人である卒業生は、美術・芸術大学に対して分配を行うのか—と考え、その状況を調べてみたいと思った。

【中 村】

「学芸に対する公金支出の正当化困難について」という刺激的なタイトルの特別講義は、その内容も刺激的だった。正当化の理由として主なものに、社会には1人1人が考え付くよりも大切な価値があるという考え方、国威高揚、文化国家たるために国が予算をつけるべきという考え方、大きく2つが考えられるが、いずれも国家主義にすり寄りがちである。所有・業績によって評価される社会ではなく、必要なものが分配される社会を肯定しようとすると、理論的には個々人への分配とは別の政府による特別枠での支援の正当化には、アートに限らず困難が残る。理論的理想像とは別に現実には社会に不平等が存在しているので、その是正として特別枠が正当化されうるにすぎない。以上のように理解した講義の内容に対しては、もっともだと思ってしまった。

たいていの場合経済学者が生産から話を始めるところ、立岩先生は分配から始めているのが面白かった。配るものがない場合はどうなるのか?という素朴な質問に対しては、今の世の中においては配る財がないことではなく、財を生み出せる資源の所有が偏っていることが問題だと考えているという丁寧な回答を頂いた。おそらく偏りを是正するための現状措置として、強制力を持った政府の関与が肯定される余地はあるのだろうと思う。

文化政策の、特に芸術支援を重視する論者の見解の中には、市場を敵視するあまり逆に政府を無条件に信頼しすぎていないかと思える議論も少なくない。立岩先生の議論は、政府の必要性は認めつつも、理論的には政府は分配だけしていればいいのが理想、という、適度な政府との距離感を感じた。

講義の翌週のゼミの議論で気付いたが、分配を受け取ることができる人間の範囲はどこまでか、例えば子どもは大人と同様に分配を受け取るのか、それとも子どもに対しては教育をはじめとするパターナリスティックな配慮も正当化されるのか、あるいは将来世代、世代間での分配をどのように考えるのかといった問題についても、質問できればよかった。

また個人的には、受講生の間でも「アート」について、アートに対する(特別な)分配を認めるべきという立場と、アートも分配の対象として考える立場、つまりアートを分配を受け取る社会の構成員ととらえるか、分配される対象物(生産された財あるいは生産に用いる生産物)として捉えるか、という前提の違いがあるのが面白かった。個人的にはこれまで後者の見方しかしていなかったので、視野を広げてもらえた。

前者のようにアートを捉えた場合、アートに対する特別な分配を認める理由として、アートは何かの役に立つから支援すべき、という論理があり得る。文化経済学はその立証を目指してきた学問でもあると思うが、「芸術が役に立つ」論調が強すぎると「役に立たない芸術は意味がない」ということになってしまう。一方で立岩先生の理論からは、何かの役に立てるという業績ではなく、アートが何の役に立たなくても社会に存在している以上、アートが必要とする分配は認められるべき、と主張できる可能性もあるのではないかと思った。その場合「アート」とは「芸術」とはそもそも何なのか、という本質論になるのかもしれない。

以 上 

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