刺戟的なゼミでした。
バラエティに富んだ受講生の皆さんの、異なる切り口からの発言に唸らされました。
自分のような、アカデミックの世界とは縁遠いビジネスの世界で生きてきた人間をも受容してもらった寛容さにも、改めて感謝を申し上げます。
さ て、「<所有>からアートと社会の関係を考える」という、変わった看板が掲げられたこのゼミなのですが、肝心のその<所有>という概念については、それほ ど意見の大きな食い違いはなかったように思います。それはそうでしょう、だって、<所有>を前提とした法体系の日本国にあって、これまで自らの参加してき たゲームのルールの根幹に正面きって疑問を呈することなど、サンチョ・パンサでもなければできたものではないでしょうから。
さ らにいえば、いろんな議論はあったものの、「社会」についても、実のところ知的ゲームとしての議論を超えて、それほど真剣な論争にはならなかったように思 います。なんとなく近しい人たちとの共同体的なものをイメージしている人もおられただろうし、地縁・血縁・社縁のような旧来型の拘束を否定にとらえて流浪 する個人の存在を肯定的にとらえられた方もおられたと思うのですが、最終的に司法・警察・徴税のような具体的な国家権力を有する「日本国」がその必要最小 限の「社会」として担保されていることについては、ある程度のコンセンサスがあったと理解しています。国家なるものが厳然と存在している以上、この現実に 反旗を翻すチェ・ゲバラになることも、なかなかに難しいということですね。
結局、このゼミの受講者の間での大いなる争点は、「アート」でした。「アート」とは何か?この一点をもって、ゼミの議論は、大きくゆれてきたとの認識で す。もっとも、自分にとっては、ゼミ開始時点でも、終了後のいまに至っても、「アート」に対する認識は変わっていません。それは、贅沢であり、趣味の世界 であり、経済学用語でいえば、上級財(所得増加時に需要増)・奢侈財(需要増の度合いが所得増の度合いを上回る)に当たるものだということです。
ところが、こんな風に言う受講生の方が何人もおられたのですね。曰く、「アートとはなくてはならないもの」。曰く、「アートとは人生そのもの」。そして、こうした説を唱える、いわばアート実存主義者の皆さんは、次の2つの主張をセットでされていたとの印象があります。
アート実存主義者の主張(その1)
「アート」は「財」ではない。
これは、いまだに自分には十分に理解ができていない論です。「財」である「アート」がこの世の中に存在していることそのものは否定されていないようなので すが、その本源的な性質としてそれを「財」ということに耐えがたい抵抗があるということでしょうか、「財ではない!」という強い主張に、ゼミの議論の過程 で何度も遭遇しました。残念ながら、その言葉の強度とは裏腹に、言葉を投げつけられる方では、いまだ、戸惑うばかりです。
いや、「財」でないものが世の中に存在する…ということ自体は、自分も否定するつもりはないのです。そのようなものは、必ず存在しています。自分が、「人 生」の楽しみとして書く絵や、趣味として演奏するピアノの曲は、広義の「アート」ではあると思いますが、とても「財」とはいえません。従って、「アート」 は必ずしも「財」ではない…という、いわばその言葉が指し示す定義域の問題なのであれば、この主張はそれほど攪乱要因にはならなかったでしょう。
問題は、このような主張がなされると同時に、次のような主張がなされるからでした。
アート実存主義者の主張(その2)
自分は「財」ではない「アート」で生きてゆきたい。
「財」たる「アート」で生きてゆきたい人は、才能を磨き、高くそれを市場で販売するだけのことですね。何ら問題はないです。実際、そのような生き方をして いるプロのアーティストの名前は何人も上げることができます。そして、「財」でない趣味的な活動を人知れずあるいは同好の友と愛でることをあえて「アー ト」と呼ぶこと自体も、特段否定されることでもないでしょう。しかし、「財」ではない「アート」をする主体が、それで「生きてゆきたい」という主張をする とき、それはいったいどういう主張となるのでしょうか?
「財」でない以上、市場で販売することができず、貨幣への変換が困難です。しかし、その主張者は市場経済の中で、貨幣を用いて「生きて」いかねばならない わけです。つまり、コンビニで買い物をして、携帯電話を使い、地下鉄に乗るわけです。もちろん、そこでこの主張者が高々とその主張する旗を掲げ、どこかの 農村に居を移し、自足時給の生活を営みながら、「財」でない「アート」の交換を愛でる斬新なる決断をされたというのであれば、それはそれで奇特なれども面 白い話であり傾聴に値するでしょう。また、そのような議論からは、新しい<所有>なり、「社会」のコンセプトが生み出されるのであれば、むしろ寿ぐべきこ とかもしれません。
しかし、<所有>の根本概念を否定することはなしに、その<所有>をあらゆる局面で根拠とする日本国という「社会」で、「財」ではない「アート」で「生きて」ゆきたいという主張をするというのは、どのような論拠によって可能なのでしょうか?
と、このようなことを、ゼミの終わりに至るまで考えてきたのですが、どうにも解決だとか納得に到達できないまま終了となってしまいました。ただ、このよう な、気持ち悪さは、もちろん収穫に違いありません。少なくとも、自分が信じ切っていたことに、当然のような顔をして揺さぶりをかけてくる攪乱者がちゃんと 存在して下さっていたということは、大変に面白い。それはもう、間違いがないです。
あ?「揺さぶられること」?…それが、「アート」ですか?…なるほどなぁ。
以上
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