2011年4月19日火曜日

「所有ゼミ」を終えての所感:「所有」――〈失うこと〉と〈得ること〉の両義性――(瀧)

 少し観念的な話になるが、私が今年度「所有」ゼミを通して一貫して考えていた問題は、「自由」「平等」「正義」「愛」「所有」などなど、この世には無数に概念が存在するが、それらあらゆる概念には必ず〈正〉〈負〉両義の側面が同時存在するということである。

 たとえば「自由」について。これについては本ゼミでもテクストとして取り上げた『資本主義から市民主義へ』(新書館、2006)のなかで岩井克人は次のように言っている。

人 間にとって、「しない自由」というのがもっとも本質的な自由のあり方です。なぜならば、「する自由」というのは、他人に対して何かを強制し、他人から何か を強制される可能性をつねにもっているからです。他人に強制されない自由の領域を人間に最初に確保してあげたのが、貨幣なのです。(34頁)



  これと同じことを、安部公房は「飛び立ちたいと願う自由もあれば、巣ごもって、誰からも邪魔されまいと願う自由もある」と表現し、「その二つの自由の関係 を追求してみたのが」小説『砂の女』(新潮社、1962)であったと述べている。『砂の女』ばかりでなく、安部は初期の頃から繰り返しこの「二つの自由」 の問題を作品のなかで提起し続けている。ごく大雑把に言えば、荒野に丸裸で放り出され常に衣食住の不安を抱えた自由人が、牢獄の内のドレイの家畜的安寧を 羨望するのに対し、逆に〈移動の自由〉のないドレイの眼には荒野での〈野垂れ死に〉でさえ極めて〈人間〉らしい自由の行使として映る、といった構図であ る。

 私は「所有」の問題を、上述したような「自由」の両義性と不可分な問題として捉えて来たように思う。卑近な例で言えば、〈持家〉であったり、〈定職〉であったり、〈結婚〉であったり、〈出産〉であったり・・・。

一 見するところ〈ない〉よりも〈ある〉方が絶対的に〈幸福〉であると思われる事柄も、こと〈自由〉を至上価値とする視点から眺め直すと、〈移動の自由への束 縛〉という意味において〈正〉から〈負〉へと価値が一転することもあるように思う。つまり「所有する」、換言すれば自己を何かに定着させようとする行為に は、必ずそれによって〈得ること〉と〈失うこと〉の両側面が生じるように思われるが、〈自由〉を至上価値とはしなかった歴史的過去においては、長く「所 有」とはイコール〈得ること〉でしかあり得なかった。

 では今日ではどうか。一方では市場経済が世界中隅々にまで浸透しているようにも見えながら、昨今のマスメディアの大勢はむしろ「所有」できない(自己を何かに定着できない)ことの〈負〉の側面ばかりを過剰に宣伝しているきらいがあるように思われてならない。曰く「無縁社会」「孤族」などなど。

  私自身の経験に即して言えば、〈ない〉より〈ある〉の方が絶対いい、〈ある〉〈ある〉〈ある〉と、〈ある〉をどんどん加算していけば必ず〈幸福〉に到達で きると言うほど、人間の心理は単純ではないように思う。ひとたび〈自由〉の味を知ってしまった人間は、依然として〈もつ幸福〉を希求しながら、同時に〈も たざる幸福〉にもどうしようもなく惹かれてしまう、より複雑、かつ困った生き物へと「進化」を遂げたのではないか。


 余談になるが、先日とある機会に岩井克人氏に無理やり「座右の銘」を書くよう強いたところ「言語・法・貨幣が人間を人間にする」と、さらに北田暁大氏にお願いしたところ、「Es gibf doch Systeme.」(「システムは残されている・・・」)とのことであった。

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