2011年4月14日木曜日

「所有ゼミ」を終えての所感:2010年度 セミナーを終えて(佐藤)

<所有>からアートと社会の関係を考えるセミナーの一年目の講座が終わりました。何度かの講義や議論に参加させていただき課題の所在がクリアになったところとあいまいさがさらに深まったところがある印象をもっています。

私は大学を卒業してから、企業とそしてこの4年は行政機構で仕事をしてきました。この間、折りにつけ「個人」「家庭」「企業」「社会」について考えてきました。

いま社会は大きな変化の中にあります。これは文明の変化と言えるかもしれません。
かって基準にしていた価値観が崩れ、考えの枠組みを組みなおさなければなりません。前提としていた考えの編成替えも余儀なくさせるものです。
一方今まで意識していなかった潜在的な力の発見に出くわすことがあります。異なる分野の、予想もしない交流やドキドキするような出会いがあります。
新しい感性の風のようなながれを感じることもあります。

社会が基本はある大きな流れに連続的に変化しているように思えます。しかしながら微分的に見れば、不連続で断絶され、不均衡に不平等に不公平に、ある種のアマルガムな変容が起こっているように思えます。

このような社会の現実に目を向けてみます。私が少年だった時代、昭和20,30年代と比べますと生活は豊かになりました。食べ物は豊富になり、家には家電製品もそろい、進学率も高まり、気楽に海外旅行へ出かけられるようになりました。しかしこの10年近く、なくなったはずの「貧困」が露出するようになっています。それはこころの「貧困」と同時に物理的な「貧困」でもあります。
経済学的には新自由主義とグローバリズムの進行により、競争社会がすすみ格差社会が進んだと言うことかもしれません。政治の流れや社会のあり方、企業活動にもその影響は出ています。
そして私が関心を持つ「共同体」のありかたにも問題を投げかけます。

かっての農村的地域共同体はほぼなくなりつつあり、擬似家族集団である企業共同体も変わらざるを得なくなっています。そして集団の最も基本である血縁集団としての家族は、核家族の解体にまで進むかのようです。
このような社会の変化の只中にいて、変化を解くカギを探すことを大切なことだろうと思います。
そしてその一つが「所有」から社会を問い直し、人間の根源的なイトナミであるアートとの関係を考えることではないかと言うこのゼミナールのテーマに大いに関心を持ちスタートしたのです。

個人(集団)のイトナミであるアートが、個人が「所有」する能力の「業績」として評価されることとはどういうことなのでしょうか?
そのことについて講師である立石先生が「属性」による社会から「業績」による社会に流れは変わってきているという認識は共有できるような気がします。
そして属性による社会が否定されたからといって、業績による社会がただちに肯定されることにならないと言う考えにもなんとなく納得できるところもありそうです。

ただ、アートの世界では、親や家の力でなく自立した個人の才能の、稀有の出現性と微妙な差異性、あるいは未踏の先見性によって、作品は評価されます。それにより個人の社会的名誉や経済的享受も獲得されます。
それが個人の才能もいってみれば人類の総学習の結果としてあり、個人の「所有」物でない、その「業績」としての作品によって社会からそれ相応に評価を受ける社会のあり方もすぐには肯定できないと言うことになると今のありかたからみると少し違うのではないかと思わざるを得ません。

親の力や才能などはどちらも、人間は不平等に生まれついています。
けれど「属性」や「業績」によって富の分配がなされる社会は格差が激しくなりしかも固定化する決して望ましい社会ではないでしょう。かといって冨を、その差異によらないで、あらかじめ平等に計算し一見効率的に分配することは社会を豊かにするのでしょうか?生き生きした活力の漲る社会になるのでしょうか?

「所有」という概念を基にした社会の認識、再定義は、それが生み出される富の分配の合理性、公平性のありかたに考えを進めるようになって行きます。

一方、「所有」の発生する「場」あるいは「関係性」に視点を変えて考えることも大事になってきます。「所有」の偶然性をより必然性に転換し人間の自由や平等を考えると同時に、「場」「関係性」を自由な空間や公共性を担保とする空間であろう考えるヒントになるのが北田さんの「公共空間」の講義でした。
さまざまに社会とアクセスし「関係性」を作ろうとするとき私たちが存在するということはどのようなことなのでしょう。
排他的でなく(オープン)自己決定性が保障され(フリー)平等性が担保される場としてたとえばショッピングモールや空港ターミナルが例示されたのは新鮮な視点でした。
「公共空間」が「新しい公共」を考える足がかりになるような気がします。
それは「私」「公」「共」という思考のオーソドックスな回路とはちがう水脈を提供する深みと別の文体があるような気がします。

社会とアートという「業績」であるとともに「関係性」である概念を考える、もやもやっとした曖昧さにたどり着いた印象です。

ある面ではクリアーになりある面ではあいまいさのまえにいるのが現在です。

今年のゼミナールをふりかえりながらさらに次の水脈をさかのぼっていきたいと考えています。

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