2011年4月10日日曜日

講義概要:立岩真也「学芸に対する公金支出の正当化の困難について」(2010/10/25)

連続ゼミナール「<所有>からアートと社会の関係を考える」特別講義(1
「学芸に対する公金支出の正当化の困難について」

講義概要

講師:立岩真也(立命館大学大学院先端総合学術研究科教授)

日時:1025日(月)19:30-21:00
会場:早稲田(本部)キャンパス 26号館(大隈記念タワー)302会議室
ゼミナール講師:
曽田修司(跡見学園女子大学マネジメント学部、ITI事務局長)
藤井慎太郎(早稲田大学文学学術院、演劇博物館GCOE芸術文化環境研究コース)
主催:早稲田大学演劇博物館グローバルCOE芸術文化環境研究コース

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1.アートについて

「アート」に関心があるかと問われたら、僕自身はあると言えばあると思う。以前は年200本近く映画を見ていたが、25年前に「これにはまっていたら仕事はできない」と思ってやめた。25年前にアートに関する知識はストップして、今は縁遠い禁欲的な生活を送っている。

2.所有について

ずっと「所有」をめぐる話を考えてきた。「所有」についてみんなが正しいと考えていることが私には腑に落ちない、それをどう言うかが初発の問題関心だった。25年間考えてきたことは、そんなに難しいことではないと思っている。そんなにややこしい話をしているつもりもない。

社会における理念系の「所有」は、「誰かが何かを作った、そうしたら作ったものはその人のものになる」という考え方だ。それは人の価値にも関わっていて、何かを生産することが、その人の価値にもつながっている。その前提にあるのは、ロック的な社会観だ。それ以前は、生まれや身分で受け取れるものが違っていた。多く受け取れる人もいれば少なくしか受け取れない人もいる。そういう社会は嫌だ、ということで市民革命が起きた。ロックはその理論的リーダーでもあった。属性で人が得られるものが決まる社会を批判し、人の能力・業績・生産によって得られるものが決まってくる社会に導いた。「所有」をきちんとやっている人は案外少ないが、属性による社会から業績による社会へ、という流れの認識は共通していると思う。私も属性による社会はよろしくないと思う。属性による社会の否定の反転として、業績による社会が肯定された。それについて自覚的な論もあったが、いつしか自明のように言われるようになった。

僕が分からないのは、属性による社会が否定されるからといって、業績による社会が直ちに肯定されるとはならないのではないか、ということだ。その話を最初の本『私的所有論』(勁草書房、1997年)と最近出した『人間の条件』(理論社、2010年)でしている。

では、業績による社会がよくない、ということをどう言えばいいか。『自由の平等――簡単で別な姿の世界』(岩波書店、2004年)、『税を直す』(共著、青土社、2009年)、『ベーシックインカム 分配する最小国家の可能性』(共著、青土社、2010年)で書いてきたが、ざっくり言えばこういうことになる。業績による社会では、できる人はたくさんできてたくさんとれる。できない人はちょっとしかできなくてたくさんとれない。僕が疑問に思ったのは、それが正しいのか、ということだ。どんな身体の性能を持っていても、だいたい同じような暮らしができるのがいいのではないか、それの何が悪いのか、と思った。そういう意味で僕は英語で言えばエガリタリアン(平等主義者)だと思う。できるできないの差で人々の暮らし向きが変わるのはおかしい。人がだいたい同じだけの暮らしをできるのがいいと思う。世の中に「財」があって人間が4人いるなら、「財」を4人で分けて暮らしていけばいい。その何がいけないのか、と思った。

もう少し考えてみる。4人の人間を仮にABCDとする。それぞれ違う人なので、同じだけ持っていても同じような暮らしはできないかもしれない。例えば歩ける人が多い社会においてAさんが歩けないとしたら、「早稲田大学に移動する」という同じだけの結果を得るにも、介助などよりコストがかかる。そういう人に対しては、コスト分を他の人と調整して上乗せすることは必要だろう。他の人から少し減らしてコストがかかる人に足すぐらいの調整は、世の中でやってもいいと思う。

3.学芸について

そういうふうに世の中を考えたときに、そこで学芸はどのように位置づけられるだろうか。世の中にはいろんなものがある。世の中には貨幣というものがあり市場というものがあるので、食べ物にお金をかけるのも着るものにお金をかけるのも個々人の自由、というのがいいのではないか。お金は換算には便利なので、世の中のお金を4等分して分ける、そして11人の事情によって必要なコストは別途割り振る、そういうスキームを考えることは可能だと思う。

そういう風に考えた場合に、学芸、アート、その他諸々はどういう位置づけになるか。GCOEからお金をもらっている僕自身、口籠ってしまうところもある。普段は、障害とか生存とか、世の中で明らかに困る人のことを考えることの方をやってきた。これから話す話の難しさは、エガリタリアンだけのものでもない。

3度の飯よりも映画や美術が好きな人はいる。そういうことを自分でやりたい人も当然いる。「財(goods)」とは、語源をたどれば元は「よいもの」のことだ。そんなに狭く考える必要はなく、アートや人のパフォーマンスも含めて我々が享受するもの、として考えていい。そういうものは我々が享受する大切なものの1つである、ここまでは広く認められていると思う。

例えばお金で換算して全部平等に分配したと仮定したときにアートはどうなるだろうか。11人が自分の持ち分の中で判断して、アートにお金を払うことは認められるだろう。一方、学芸、例えば研究プロジェクトのスキームは、世の中にある「もの」を個々人に割り振るのとは別枠でとっておいて、その別枠の使い道を政府なら政府が決める、という考え方に立っている。なぜその別枠が正当化されるのか。今日の話は「別枠の正当化は意外と難しい」という話にならざるを得ない。

自身が関わっているGCOEの予算は全部で約3000万円、つまり3000万円の別枠をもらうことで成り立っている。別枠について、経済学では公共財という言い方をしたりする。経済学の世界では、マーケットのやり方だとうまくいかない部分を公共財につなげて、それを政府が供給すべきという話をする。教科書レベルの基本的な話だが、この話には限界もある。教科書的にいえば、公共財には「非排除性」「非競合性」という性質がある。非排除性は、人々がやってくることを止められない、あるいは止めようとするとものすごいコストがかかる、という性質だ。非競合性は、誰かが使っても他の人の使用が妨げられない、という性質だ。例えば道路は、ものすごい込んでいるのでなければ、誰かが通ったことで他の人が通れなくなることはないし、それで困る人もいない。こうした「非排除性」「非競合性」という性質を持つ財の場合は、11人からお金をもらうのはうまくいかないから政府持ちでいこう、というのが公共財の考え方だ。

この「別枠=公共財」の考え方がうまくいかないのは、昔ならともかく技術が発達した今日では、「個別徴収の徹底」はそんなに難しいことではないという点にある。11人からお金をとるのが難しい部分は政府持ちという考え方が、技術の進歩により成立しなくなってきた。そういう状況で、公共財であることを理由に別枠を特別扱いすることは正当化できない。

「課題は、国家を認めた上で、余計なことからどこまで離れられるかである。実際、国家は権利を強制力によって保障する活動――分配はその重要な一部である――だけを行っているのではない。さまざまなものに租税からの支出がなされる。今、分配は支持されたが、それは政府支出全般を支持するものではない。むしろその大きな部分について正当性を疑うことになる。「厚生経済学」では、公共財については政府支出がなされるべきだとされる。その公共財と個々人から個別に料金をとれない、そして/あるいは、とるべきでない財だと言われる。港湾、警察、国防…等々があげられる。しかし、「とれない」のか「とるべきでない」のか、いずれかの理由によるのかはっきりしないものもある。また、「とれない」場合には、(かつてはだめだったが、今なら)とれる方法があるかもしれない。例えば、すべての道路を有料化することは技術的には不可能でないかもしれない。次に個々人から「とるべきでない」と言えるもの、つまり全員から「とるべき」だと言えるものがどれだけあるだろうか。例えば、「文化」や「学問」に税金が使われることの正当化は、少し考えてみると、そう容易なことではない。さらに、産業の保護や育成はどうだろうか。景気対策はどうだろうか。これらのことを考えてみてよい。」(立岩「分配する最小国家の可能性について」、『社会学評論』49-3(195)1998年、426-445頁。)

マーケット自体を否定せず、平等な分配を達成するやり方は、そうそうない。例えば「マーケットの中では格差が生じるから、政府がみんなからお金を集めて再分配をする」という考え方があった。それを実際にやったのが福祉国家だ。それに対して常套的に投げつけられてきた批判というのは、「そのやり方は国家の個人に対する干渉を大きくし、政府の権限を拡大する」というものだ。

お金を配るときに優先順位をつけて配分するなら、それは国家の好みによる個人への干渉といえる。それに対し「分配する最小国家」という言葉で言いたかったのは、国家は分配はするけど好みは押し付けない、ということだ。単純な割り算+ちょっと複雑な調整で、それを分配して人々に配り、人々はそれで生活する。政府は単なる会計係にすぎず、計算ができれば人間でなくてもいいのかもしれないくらいになる。ノージックが昔言ったことだが、そういう最小国家の在り方は、理屈としては通っている。そうすると、11人に分ける部分とは別枠にお金をとっておく、ということの正当性が困難になる。

マーケットの格差是正以外の正当化の理論づけとして、私的には歓迎できない理屈だが思いつくのは、レジュメで書いた「実現されるべき価値あるもの」論と「国家の威信」論、「情操教育」論ぐらいである。

「他に何か言えるだろうか。個々人の選好(preference)を超えて実現されるべき価値があり、ゆえに、その価値あるものについては――個々人に委ねるなら個々人がそれを選好しなくとも――支出されるべきであるという主張がある。しかし、そこまで言うか、言えるか。

 あとは、現実にあるのは、「文化国家」であらねばならないといった話である。つまり他国(の人々)にかっこつけるためには、そういうことにも金を出すべきだというのである。しかし、それは「国家の威信」であるとか、そんなものを支持するということにもなる。

 他には、そうすると(いっけん無駄のように思えても)なにかの利益を生み出すといった筋の話がある。「情操教育」が大切だといったような話である。そんなこともあるかもしれない。しかしそれは、アートをなにか(よいもののため)の手段とするということでもあり、常識的に考えるならなにか役立ちそうに思えないものには金を出さなくてよいということにもなる。」(当日配布資料より)

「実現されるべき価値あるもの」論は、言ってしまえば社会には11人が考えつくよりも大切な価値があり、そのためにはお金を使ってもいいという考え方である。例えば文化財の保護などは、人に受け入れられなくてもやっていい価値あるべきことだという理屈になる。「文化財を大切に思うこと」自体は平等に配る社会でも否定はされない。個々人が自分への分配の中から文化に寄付をすればいい話で、それが否定されることはない。ここで言っているのは11人の分配とは「別枠」に、そういうことにお金を使っていいということの正当性の問題だ。そこでは、「これよりこっちの方が大切だ」ということを証明しなければいけない。例えば「国立の能楽堂を作ることは、~より重要だから、実現されなければいけない」と言わなければならない。ただアートをそういう持ち上げ方をすることにためらいを持つ人もいる。この辺りはアンビバレントな議論で、僕自身も「特別だ」という言い方をしたい気持ちもする一方で、そのカードを使っていいのかという抵抗も感じている。

 「国家の威信」論は、例えば「文化国家」の話である。文化政策なりスポーツ振興なりにお金を日本はこれまで使ってこなかったから他国と比べてみすぼらしい。だからお金をつける必要がある、という言い方だ。この議論に乗ることに抵抗がない人もいるだろうが、そういった国威高揚のためにお金を投下することを正当化する考え方は、国と国との優劣を大切にすることにも通じていて、ためらいも感じる。国家予算をつけるにあたっては、何を優先するのが国家としてかっこいいのか、より優れたもの、より高級なものという選別が働き、現実には選別されたところにお金が投下される。そんな理屈でお金を出してほしくないと思う人もいる気がする。僕自身もそう思うし、この言い方を使うことには抵抗を感じる。

 「実現されるべき価値あるもの」論と「国家の威信」論、この2つの言い方では座りが悪く、学芸への別枠支援を正当化できない。

エガリタリアン的な立場からの別枠正当化の可能性として1つ言えるのは、現実は平等な分配にはなっていないということだ。貧乏人はどれだけオペラが好きでも全然観にいけないということは現実に起こっている。現実に平等な分配が成り立っていない以上、それは人々がそこそこ好きなものにみんなアクセスできることを目指すというエガリタリアン的な立場からは望ましくないので、ミュージアムにお金を出して無料化するといった試みなどは、意味があると言える。アクセス権の保障は正当化されうる。平等な分配がなされていない今の社会においては、特別枠による再分配がある方がないよりはいいとは言えるかもしれない。

ただ理論としては、11人が何にお金を使うか11人が決めるのが望ましいという社会を考えるなら、その社会と特別枠による再分配がある社会とどちらが望ましいかと言われると、後者がより望ましくないことになる。そういう意味で話は終わっていない。

4.最後に

僕は所有・業績の社会を否定し、そうではない社会の在り方として分ける社会、分けられたそれぞれの持ち分から好きなものにお金を出せばいい、という考え方をしている。そういう考え方からは、特別枠によるお金の出し方の正当化は困難になる。正当化には「実現されるべき価値あるもの」論や「国家の威信」論のような論理が必要だが、国家主義にすり寄るようで居心地がよくない。それ以外の正当化手段は現時点では見当たらない。ただし、理論的な理想の世界像とは別に、現実には不平等な社会という実態がある。そこで不平等を補正するための再分配として、特別枠の存在意義はあると思う。ただそれは不平等な現状に対する補正措置としての肯定にすぎない。原理的に分配する社会を肯定しようとすれば、特別枠を認める社会の理論的正当化には困難が残ることになる。

5.質疑応答

Q1:

不都合を補正してほしいと声を上げるのは誰か。実際にはマイノリティは声を上げにくいのではないか。

A1:

現実には補正、そのための追加費用の支出は行われていない。それでは困るということは、理屈で言ったり情で訴えたりして、誰かが言わなくてはいけないのが現状だ。ただそれは事実ではあるが望ましいことではないと思う。望ましい姿のためのしかけを考えるのが僕の仕事だと思っている。

「僕は人と比べてこんなに大変だから余計に頂戴」と言うのは確かに面倒だし苦痛だ。それもしかたないとはいえ、できるだけそれを言わなくても済む社会がいいとは思う。あまりたくさん言わずに済む仕組みとして、どうすればいいか考えている。『弱くある自由へ』(青土社、2000年)でも少し書いたが、今考えているのは、同じくらいの枠でいったん分けるとして、やりたいことをやるのに枠以上にかかった追加費用については、その分だけ言い値で認めてもいいのではないか、ということだ。例えば医療はそういう仕掛けになっていると言える。医療制度がそこそこ回ってきたことを考えると、そこまで非現実的な話でもない。「自分は大変だ」と声を上げなくてもいい社会は難しいかもしれないが、あまり声高に言わなくてもいい社会はあり得るのではないか。

Q2:

文化の多様性、経済のグローバル化による文化の画一化を防ぐために政府介入が必要という文化の多様性の理論は、正当化の根拠になりうるか。

A2:

正当化の十全な根拠かどうかは分からないが、大切なポイントだと思う。現実にはA文化を保持するコストとB文化を保持するコストは違う場合がある。多くの人に支持されていて頭割すると1人当たりの負担は少なくて維持できる言語Aと、使う人が少ない言語Bでは、人が使い続けるためのコストは違ってくる。コストが違う以上、余計にかかる部分について特別の別枠措置は必要だという有力な根拠の一つにはなるだろう。

ただその場合も大切にしているもののために余計なコストがかかっているという評価は誰かがせざるをえない。そういう評価も政府はするべきではないというのがリバタリアンだが、その辺は私は若干中途半端で、何よりも何が大切であるという順位付けは必要だし、だから保護が必要、ということは言っていいと思う。そして集団間でコストが違う場合に、コストの補正を行うことはありうると思う。つまり補正のための別枠は正当化するわけだが、それ以外の別枠については課題は残る。

Q3:

世界にものが余っている豊かな状態でなくとも「分配」は成り立つか。

A3:

僕自身は、生産財・人の労働・その結果としての生産物、その3つの分配が重要という立場をとっている。今の世の中の資源の過小状態は、生産財の所有の偏りに起因すると考えているので、それは世界における資源そのものが少ないことを意味しない。生産財=原料はやがて無くなるかもしれないが今は無くなっていない。人の労働という意味では、失業率50%の世界でも半分の人はまだ働ける。もし世界における資源そのものが少なくなったらという極限状態の話と、今の状況は別で、現状何か足りないとは考えていない。

Q4:

情報格差は「分配」の問題に含まれるか。

A4:

情報の非対称性、受け取るものがどういうものかわからなければ選びようがないというのはその通りだと思う。情報格差の補正は必要だと思う。そのために、政府が特別のアクセス装置を作るのがいいのか、それともきちんと分配がなされていれば特別なことを政府が用意しなくても情報を提供するサービスも提供されて格差が補正される可能性もあるのか。情報がないと選択が成り立たないのはその通りだが、選択の保障のための手段は次の別の問題になる。情報があれば分配はうまくいくという考え方か、それだけでは不十分と思うか。僕はかなりうまくいくと思うが、資源が与えられればそれでうまくいくと思うほどの楽観主義者でもなく、余計な親切、おせっかいが必要という場面も多々あるのではないかと思う。

Q5:

アートが何のために存在しているかといったときに、内面世界の擁護、精神世界の重要性をストレートに訴えるのは難しい。自分というものを所有することの困難さを訴えないと、アートの必要性を語れないのではないかと思っている。立岩先生の言い方で言うなら「他者がいることが快である」こと、「弱くある自由へ」、その伝わりにくさはアートとも通じるのではないか。

A5

仰っていただいたようなことは僕がものを考える根底にあるような気がする。素朴な直観のようなもので、直観は現実そのものでもあるような気がしているのだが、「私よりも世界の方が大きい」という感覚はある。ここでいう世界は人間と人間以外のものも含めた「他者」を意味する。なのに我々の社会の根本はすべてのものが「私」から端を発して回っているしかけになっている感じがするのが、素朴に嫌だった。

私はこれだけだけど、私を取り巻く世界は常に私よりも大きくて私よりも豊かである。その思いから出発して論じている感じはする。それがアートと何かつながる気はするが、今日はそういった存在論を展開できるように思わなかったので分配の話に徹した。ただ根底でずっと思っていることではある。

Q6:

先生の著書は性善説だと感じていたが、今の世の中は著書執筆当時よりどれだけ変わっていると思うか。

A6:

僕は性善説か、といわれるとちょっと微妙だと思う。本当に性善説で行けるなら政府は要らない。取り過ぎる人と足りない人が生じるという事態がそもそも起こらないだろうし、起こったとしても自発的な贈与でみんなが補正し合えるから強制力は要らない。政府が他の機関と基本的に何が違うかといえば、強制力を持つというただ一点に尽きる。ある種の無政府主義者の人たちは強制力の不在を期待しているところがあるが、私自身は強制力も必要だと思っていて、そこまでの性善説主義者ではない。

ただなぜ人は強制に従うか、従ってもいいと思っているか、となると、また別の話になる。その限りでは、僕はあまり世の中がだんだん悪くなっているという話はしない、予めの悲観主義には立たないでものを考えようと思っている。

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