2011年5月1日日曜日

「所有ゼミ」を終えての所感:「所有から考えること」にどれだけの意義があるのか(稲木)

 本レポートでは、特別講師の講義後の感想で記述したことは繰り返さない。むしろ、全体のテーマであった「<所有>からアートと社会の関係を考える」こと自体について、言い換えれば、「所有から考えること」の意義について、批判的に考えてみたい。
そもそも、《法的レベル》で「所有する」/「所有しない」ことと、《感情レベル》で「所有する」/「所有しない」ことは別物である(そもそも《感情レベル》で「所有」を語ること自体に疑問を感じているがそれはとりあえず措く)。《法的レベル》である者の「所有」になっていても、必ずしも《感情レベル》での他の者の「所有」が妨げられるわけではない。知的所有権において議論される「共有」は、《法的レベル》というよりも、《感情レベル》の概念であって、一部の権利者に《法的レベル》での「所有」が集中し、多くの利用者の《感情レベル》の「所有」が妨げられていることから生じた問題と言うことができるかもしれないが、主として問題となっているのは、「所有」に由来する「利用」の側面であって、諸個人の《感情レベル》の「所有」を妨げないレベルにまで、《法的レベル》の「所有」のレベルを落とす、つまり、《法的レベル》の「利用」の枠を広げることで問題は解決しようとしている。よって、権利の《法的レベル》の「所有」は権利者にとどまり、権利の《法的レベル》の「利用」が非権利者にも広げられているだけである。ロックに由来するような「自己所有権」を見直すといっても、《法的レベル》での「私的所有」そのものを無にすることにはならず、《法的レベル》の「私的所有」の枠内で、《感情レベル》の「共有」を実現していくことが可能であり、《法的レベル》の「共有」に話が展開しているわけではない。
「アート」が《感情レベル》である集団によって「共有」されていると言うことができるかもしれないが、「共有」のされ方(「アート」の受容の仕方)が一様ではないため、集団全体によって厳密に「共有」されていることを意味しないうえに、集団は「社会」と同義ではない。さらに、《感情レベル》である「文化」の受容の仕方を「共有」することは、《法的レベル》で強制づけることは全く不可能ではないが望ましくない。誰も「アート」の受容の仕方(《感情レベル》での「共有」)を強制づけられるべきではない。それを可能にするのは個人の主観的な感情だけである。立岩氏も北田氏も、厳密な思想は異なるが、ともに個人の権利(自由)を重視する点で共通点があり、個人の自由な選択を重視する。そこでは、「アート」も選択肢の一部であり、それが本当に自由になされているのであれば、「アート」の受容の仕方(「アート」を選択しないことを含む)は自由である。
よって、《法的レベル》でも《感情レベル》でも、「所有」から「アート」と「社会」の関係を考える意義は極めて限られているのではないだろうか。むしろ、本ゼミナールの特別講師から得られたのは、「他者によって自由を奪われること」への警戒であって、「自由」から「アート」と「社会」の関係を考えたことにならないだろうか。私が「アートと社会の関係」ということで最も考慮すべきと考えるのは、「社会」における「アート」の位置づけである。「社会」のすべての者によって《感情レベル》で「共有」されることが可能なのは、「すべての者が文化的に生きる権利をもっている」ということだけであって、「アート」だけが「社会」と関係しているのでも、「アート」だけが「社会」的な意義をもっているのでもない。「アート愛好者」はその選好を、「他の文化の愛好者」はその選好をというように、それぞれが「住み分ける」ことが望まれるのであれば、「それぞれ好き勝手にやってください」で終わってしまう。しかし、それでは、「社会」が選好によって分断されるのを容認するだけであり、「社会」全体にとって望ましい結果にはならない。そのように思う人は、多かれ少なかれ、コミュニタリアンであろうが、このような考えにとって重要になってくるのが「文化多様性」あるいはそのコロラリーとしての「文化間対話」という概念だと考えている。
結局、「アート愛好者」が「他の文化の愛好者」のことを、「他の文化の愛好者」が「アート愛好者」のことを、共感しないまでも相互に尊重(理解)しあうことでしか、「社会」全体は語り得ないのではないか。あるいは、「アート」という文化形態にしか存在しない(あるいは他の文化形態と比して大きな)「社会」的価値が存在するのであれば、その点を突き詰めることにこそ、「アート」を「他の文化」から切り離して論じる意味があるのではないか。私自身、「アート」にそのような価値がないとは思っていない。だとすれば、「所有から考える」ことよりも、「アートから考える」(例えば、「アート」とはどういうものか?)ことから、「所有」や「社会」のあるべき形を考えていく方が良いのではないかと考えている。全くの個人の自由によって処分されるべきでない「アート」が存在する可能性があるのかもしれない。このことも、今日の「アート」の多様なあり方を考慮したうえでしか、「所有」や「社会」は論じられないのではないだろうか。

「所有ゼミ」を終えての所感:「言葉と関係性について断片的に考えること」(石黒)

                          
 今年度〈所有〉を意識し始めるようになって、現段階で私が帰着している点は、言葉が〈所有〉している、していない意識に大きく関わるということです。
 このゼミナールで議論を進めるうちに、それ自体を「わたし」がことばで捉えて初めてその存在を言葉で捉えてその存在を考えるようになり、議論を通して度合いの深さと範囲の広さには差異があることを知り得ました。
 「基準。実在的なものとは、語る主体が何らかの度合いで意識しているもののことだ。彼らが意識するものがすべてであり、意識できるもののほかは何でもない。」(『形態論』[157]※)
不勉強のため、ここで語る術を持っていませんが、ソシュールは再読してみようと思っています。ゼミナールのキーワードの「アート」について、個人としての個々の作品への嗜好は別問題ですね、私自身の問題意識は希薄のまま終わりました。「アート」と「芸術」の違いも、どの言語で語るかという概念のバイアスをより明確に感じることができました。言葉に引き寄せて考えると、全く意識していなかったものも、敢えて「アート」と呼んで広めていくことで、アートとして認められる状況が成り立っています。いかに人々の関心を集めるか、その仕掛けの複雑さに作品そのものよりも目がいってしまうこともあります。

 意識に関連して述べるならば、特別講義で北田暁大氏が、閉塞感も自覚している点で問題の8割はクリアできており、むしろ自分がネガティブな状況に置かれている認識からも外れてしまっている社会の外部について、議論を進めるべきと回答されていたことは、示唆的でした。デジタルネイティブといわれる世代の時代が到来して、「社会」も非常に相対的、あるいは仮想現実的になってくると人と人のつながりや、信頼感とはなにかを、印象論ではない方法で検証していく必要を感じています。
今は、多様性を受け入れ、なにかに衝突せず順応していける人が生きやすいかも知れません。しかし、アートは普遍性の時代にあっても、それを超えた積極的な差異を生みだせるエネルギーをもっていかないと作品としての強さにはならないのではないか、とぼんやり考えながら、まとめのときを迎えてしまいました。このゼミナールに参加してさまざまの思考のきっかけは掴むことができました。今後の課題としていきたいと思います、ありがとうございます。
 ※ 「沈黙するソシュール」 編・訳 前田英樹

〈所有〉ゼミの一年目を終えて(曽田修司)

 ゼミナール「〈所有〉からアートと社会の関係を考える」
の一年目が終了した。
 そもそも、このゼミを始めるときの私の関心は、アートの社会的位置づけをどのようなものとしてとらえるか、というところから出発していた。
 「アートと社会の関係」と言ったときに、「社会」という言葉の指し示す領域やその内実がさまざまであって、一義的に社会の性質を確定できないという事
情があるのは当然である。だが、ゼミを始めるときに、私が、その「当然である」という認識を、今と同じように持っていたかと言えば、そうではなかったと
言わざるを得ない。「社会」のあり方を、複眼的な視点を持って再考し検証するという態度が、「アートと社会の関係を考える」際に強く要請されていると言
えるだろう。
 その際、どのような〈所有〉が前提とされている社会であるか、という視点を入れると、そこで対象としている社会の性質が相当程度特定されることにな
り、そこから、その社会の中のアートの存在のあり方も特定される。つまり、アートと社会は、他の要素から影響を受けない独立の存在ではなく、アートと社
会がともに存在している平面の外にある〈所有〉という変数の影響によって平面内の関係性が変化する、といった体のもののように私には思われた。
 このゼミの前身である東京大学文化資源学公開講座「市民社会再生」においては、「〈所有〉からアートの公共性を考える」というテーマで議論を進めた。
そこで〈所有〉と表記したことの含意は、近代の「私的所有」に限定されないさまざまな所有のあり方を検証することによって、アートに公共性があることを
確かめようとするものだった。この公共性とは、市民社会の公共性という意味であり、そこでの議論の多くは「私的所有」を疑い相対化することに公共性を見
いだそうとするものであった。
 そのことが間違っていたわけではないと思うが、しかし、いま考えると、それだけではなく、歴史的に「私的所有」の概念が導入され確立されることによっ
て生み出された公共性というもののあり方に目を向けることが相対的に少なかったのではないかと感じる。その点を再検討する必要があろう。
 所有の時代は終わり、「接続と承認の象徴としての共鳴」が重視される時代になったとの指摘もある(佐々木俊尚「キュレーションの時代」)。
 国家でも市場でも従来的な地縁的共同体でない共同体がインターネットウェブを介した共同体として急激に生成しつつある今日、市民社会のあり方、あるい
は、「自由」や「正義」といった理念そのものが大きな変容を遂げていると考えるのが自然であろう。
 そのあたりのことを来年度もう一年をかけて探ってみたいと考えている。

2011年4月19日火曜日

「所有ゼミ」を終えての所感(古賀) 

 レポートを執筆するにあたり、このゼミナールに参加して、私はどのようなことを経験し、どのような変化があったのかを振り返った。最大の変化は、ゼミナールの名称通り、「<所有>からアートと社会の関係を考える」[1]機会が増えたことである。

 具体的に、私はどのようなことを考えるようになったのか。その例として、先日横浜美術館に行ったときに気になったことや、考えたこと等を、簡単ではあるが下記に挙げてみたい。まず、常設展である「横浜美術館コレクション展」では、写真撮影が可能[2]であることが興味深かった。著作権はどのように扱われているのだろうか。作家や来館者等はどのように思っているのだろうか。多くの疑問を抱えなら、シャッターを切った。加えて、「横浜美術館コレクションから1作品のパトロンとなっていただくユニークな支援プログラム」[3]である「横浜美術館コレクション・フレンズ」制度は、ゼミナールの前身である「<所有>からアートの公共性を考える」プロジェクト[4]における「関わることも一種の所有」という提言に通ずる取り組みであると感じた。次に、企画展である「高嶺格:とおくてよくみえない」展については、会期中[5]につき、展示内容への言及は避けるが、油粘土やチョークといった不安定な素材や、多様なモチーフ・テーマを通して、性・国・アート・作家と作品、そして学芸員と美術館の在り方や関係性等について、ゼミナールと同様、多くの問いが湧き続ける展覧会であった。

 以上のように、ゼミナールが終了した現在も、私の頭の中では、「<所有>」・「アート」・「社会」を巡る疑問が様々な角度から生まれている。「<所有>からアートと社会の関係を考える」機会が増えた背景には、特別講義(ブブ・ド・ラ・マドレーヌさん)の準備を担当したことがある。私は特別講義の準備を通して、「共有の難しさ」と「アーカイブの重要性」を痛感したのだ。

 私がブブさんを講師としてお招きしたいと考える契機となったのは、ゼミナールの課題図書である『所有のエチカ』[6]の藤野寛「家族と所有」である。その中の「愛」・「夫婦」といったキーワードから、内容や方向性等は異なるものの、私はブブさんが参加されていたDumb TypeS/N』の台詞や、ブブさんの各活動を想起したのだ。そして私は、家族を始めとする様々な人間関係において「<所有>」の概念は切り離せないものであり、加えて、性[7]や身体、自己決定権等、他の講師や課題図書の内容とも関連の深いトピックであると考えたのだ。しかし、私は他の参加者にこの考えをうまく伝えることができないでいた。私自身の言葉というメディアの非力さに加えて、ある人にとって、ある物事は「とおくてよくみえない」ものであったり、「ちかい」のに、または「ちかい」からこそ見えない物事であったりすること―共有、ここでは共感の方が適切かもしれない、その難しさ[8]―を知った。

 自分の言葉というメディアだけでは伝えられないと判断した結果、ブブさんに関する資料をできる限り紹介しようと考えた。しかし、特別講義講師2名の主要なアウトプットは、論文や書籍といったメディアを通して行われるが、ブブさんの主要な手段は作品(映像やインスタレーション、パフォーマンス等)や活動等と多岐に渡り、しかもその多くが論文や書籍といったメディアに比べて再現やアクセスが困難であった。そのような折、断片的な情報ではあるものの、展覧会の図録、ギャラリーの作品集、雑誌のインタビュー記事等が、重要な情報源となった。それらの多くが大学の研究書庫、美術館の図書館等で所蔵されていたものであったことから、アーカイブのありがたみ―誰かの所有によって、他の人のアクセスが可能になる―ことを改めて実感したのだ。

 前半で述べた通り、このゼミナールを通して、「<所有>からアートと社会の関係を考える」機会が増えた。今はまだ、その「考える」という行為から、明確な答えを導き出すことはできず、ただ頭の中に疑問が蓄積されていくばかりだ。しかし、何らかの問いを立て、「考える」という機会の増加は、私にとって大きな変化であると同時に、収穫であったし、将来においては、さらなる実りにつなげていきたい。


[1] この問いには、「<所有>」・「アート」・「社会」、それぞれの定義の再考も含む。10月に開催された合宿における「アート」の定義を巡る議論は強く印象に残っている。

[2] 「横浜美術館コレクション展」では撮影に際しての申請は不要であった。クリエイティブ・コモンズを導入した森美術館の展覧会や、東京国立近代美術館の所蔵作品展(常設展)のように申請により撮影可能となるケース等、美術館における写真撮影時のルールに関しては、複数のパターンがある。

[3] 「横浜美術館サポーター募集」横浜美術館、2011223日閲覧、http://www.yaf.or.jp/yma/supporter/200/210/

[4] 2010年度東京大学文化資源学公開講座「市民社会再生―新しい理論構築に向けて」プロジェクト2

[5] 20112月現在。会期は2011320日まで。

[6] 大庭健・鷲田清一 編『所有のエチカ』、ナカニシヤ出版、2000

[7] ここにおける「性」は「ジェンダー」・「セックス」・「セクシュアリティ」等複数の意味を含んでいる。

[8] 難しさと同時に、面白さも感じた。講師の方々、先生方、そして参加者の皆様とのディスカッションは大変刺激になった。皆様、ありがとうございました。今後とも、どうぞよろしくお願いいたします。

「所有ゼミ」を終えての所感:「所有」――〈失うこと〉と〈得ること〉の両義性――(瀧)

 少し観念的な話になるが、私が今年度「所有」ゼミを通して一貫して考えていた問題は、「自由」「平等」「正義」「愛」「所有」などなど、この世には無数に概念が存在するが、それらあらゆる概念には必ず〈正〉〈負〉両義の側面が同時存在するということである。

 たとえば「自由」について。これについては本ゼミでもテクストとして取り上げた『資本主義から市民主義へ』(新書館、2006)のなかで岩井克人は次のように言っている。

人 間にとって、「しない自由」というのがもっとも本質的な自由のあり方です。なぜならば、「する自由」というのは、他人に対して何かを強制し、他人から何か を強制される可能性をつねにもっているからです。他人に強制されない自由の領域を人間に最初に確保してあげたのが、貨幣なのです。(34頁)



  これと同じことを、安部公房は「飛び立ちたいと願う自由もあれば、巣ごもって、誰からも邪魔されまいと願う自由もある」と表現し、「その二つの自由の関係 を追求してみたのが」小説『砂の女』(新潮社、1962)であったと述べている。『砂の女』ばかりでなく、安部は初期の頃から繰り返しこの「二つの自由」 の問題を作品のなかで提起し続けている。ごく大雑把に言えば、荒野に丸裸で放り出され常に衣食住の不安を抱えた自由人が、牢獄の内のドレイの家畜的安寧を 羨望するのに対し、逆に〈移動の自由〉のないドレイの眼には荒野での〈野垂れ死に〉でさえ極めて〈人間〉らしい自由の行使として映る、といった構図であ る。

 私は「所有」の問題を、上述したような「自由」の両義性と不可分な問題として捉えて来たように思う。卑近な例で言えば、〈持家〉であったり、〈定職〉であったり、〈結婚〉であったり、〈出産〉であったり・・・。

一 見するところ〈ない〉よりも〈ある〉方が絶対的に〈幸福〉であると思われる事柄も、こと〈自由〉を至上価値とする視点から眺め直すと、〈移動の自由への束 縛〉という意味において〈正〉から〈負〉へと価値が一転することもあるように思う。つまり「所有する」、換言すれば自己を何かに定着させようとする行為に は、必ずそれによって〈得ること〉と〈失うこと〉の両側面が生じるように思われるが、〈自由〉を至上価値とはしなかった歴史的過去においては、長く「所 有」とはイコール〈得ること〉でしかあり得なかった。

 では今日ではどうか。一方では市場経済が世界中隅々にまで浸透しているようにも見えながら、昨今のマスメディアの大勢はむしろ「所有」できない(自己を何かに定着できない)ことの〈負〉の側面ばかりを過剰に宣伝しているきらいがあるように思われてならない。曰く「無縁社会」「孤族」などなど。

  私自身の経験に即して言えば、〈ない〉より〈ある〉の方が絶対いい、〈ある〉〈ある〉〈ある〉と、〈ある〉をどんどん加算していけば必ず〈幸福〉に到達で きると言うほど、人間の心理は単純ではないように思う。ひとたび〈自由〉の味を知ってしまった人間は、依然として〈もつ幸福〉を希求しながら、同時に〈も たざる幸福〉にもどうしようもなく惹かれてしまう、より複雑、かつ困った生き物へと「進化」を遂げたのではないか。


 余談になるが、先日とある機会に岩井克人氏に無理やり「座右の銘」を書くよう強いたところ「言語・法・貨幣が人間を人間にする」と、さらに北田暁大氏にお願いしたところ、「Es gibf doch Systeme.」(「システムは残されている・・・」)とのことであった。

「所有ゼミ」を終えての所感:「アート」って…そんなの決まってるじゃないですか!ただの「財」でしょ?(ヒデ)

刺戟的なゼミでした。


バラエティに富んだ受講生の皆さんの、異なる切り口からの発言に唸らされました。

自分のような、アカデミックの世界とは縁遠いビジネスの世界で生きてきた人間をも受容してもらった寛容さにも、改めて感謝を申し上げます。


さ て、「<所有>からアートと社会の関係を考える」という、変わった看板が掲げられたこのゼミなのですが、肝心のその<所有>という概念については、それほ ど意見の大きな食い違いはなかったように思います。それはそうでしょう、だって、<所有>を前提とした法体系の日本国にあって、これまで自らの参加してき たゲームのルールの根幹に正面きって疑問を呈することなど、サンチョ・パンサでもなければできたものではないでしょうから。


さ らにいえば、いろんな議論はあったものの、「社会」についても、実のところ知的ゲームとしての議論を超えて、それほど真剣な論争にはならなかったように思 います。なんとなく近しい人たちとの共同体的なものをイメージしている人もおられただろうし、地縁・血縁・社縁のような旧来型の拘束を否定にとらえて流浪 する個人の存在を肯定的にとらえられた方もおられたと思うのですが、最終的に司法・警察・徴税のような具体的な国家権力を有する「日本国」がその必要最小 限の「社会」として担保されていることについては、ある程度のコンセンサスがあったと理解しています。国家なるものが厳然と存在している以上、この現実に 反旗を翻すチェ・ゲバラになることも、なかなかに難しいということですね。


  結局、このゼミの受講者の間での大いなる争点は、「アート」でした。「アート」とは何か?この一点をもって、ゼミの議論は、大きくゆれてきたとの認識で す。もっとも、自分にとっては、ゼミ開始時点でも、終了後のいまに至っても、「アート」に対する認識は変わっていません。それは、贅沢であり、趣味の世界 であり、経済学用語でいえば、上級財(所得増加時に需要増)・奢侈財(需要増の度合いが所得増の度合いを上回る)に当たるものだということです。


 ところが、こんな風に言う受講生の方が何人もおられたのですね。曰く、「アートとはなくてはならないもの」。曰く、「アートとは人生そのもの」。そして、こうした説を唱える、いわばアート実存主義者の皆さんは、次の2つの主張をセットでされていたとの印象があります。


アート実存主義者の主張(その1)


「アート」は「財」ではない。


  これは、いまだに自分には十分に理解ができていない論です。「財」である「アート」がこの世の中に存在していることそのものは否定されていないようなので すが、その本源的な性質としてそれを「財」ということに耐えがたい抵抗があるということでしょうか、「財ではない!」という強い主張に、ゼミの議論の過程 で何度も遭遇しました。残念ながら、その言葉の強度とは裏腹に、言葉を投げつけられる方では、いまだ、戸惑うばかりです。


  いや、「財」でないものが世の中に存在する…ということ自体は、自分も否定するつもりはないのです。そのようなものは、必ず存在しています。自分が、「人 生」の楽しみとして書く絵や、趣味として演奏するピアノの曲は、広義の「アート」ではあると思いますが、とても「財」とはいえません。従って、「アート」 は必ずしも「財」ではない…という、いわばその言葉が指し示す定義域の問題なのであれば、この主張はそれほど攪乱要因にはならなかったでしょう。


 問題は、このような主張がなされると同時に、次のような主張がなされるからでした。


アート実存主義者の主張(その2)


自分は「財」ではない「アート」で生きてゆきたい。


  「財」たる「アート」で生きてゆきたい人は、才能を磨き、高くそれを市場で販売するだけのことですね。何ら問題はないです。実際、そのような生き方をして いるプロのアーティストの名前は何人も上げることができます。そして、「財」でない趣味的な活動を人知れずあるいは同好の友と愛でることをあえて「アー ト」と呼ぶこと自体も、特段否定されることでもないでしょう。しかし、「財」ではない「アート」をする主体が、それで「生きてゆきたい」という主張をする とき、それはいったいどういう主張となるのでしょうか?


  「財」でない以上、市場で販売することができず、貨幣への変換が困難です。しかし、その主張者は市場経済の中で、貨幣を用いて「生きて」いかねばならない わけです。つまり、コンビニで買い物をして、携帯電話を使い、地下鉄に乗るわけです。もちろん、そこでこの主張者が高々とその主張する旗を掲げ、どこかの 農村に居を移し、自足時給の生活を営みながら、「財」でない「アート」の交換を愛でる斬新なる決断をされたというのであれば、それはそれで奇特なれども面 白い話であり傾聴に値するでしょう。また、そのような議論からは、新しい<所有>なり、「社会」のコンセプトが生み出されるのであれば、むしろ寿ぐべきこ とかもしれません。


 しかし、<所有>の根本概念を否定することはなしに、その<所有>をあらゆる局面で根拠とする日本国という「社会」で、「財」ではない「アート」で「生きて」ゆきたいという主張をするというのは、どのような論拠によって可能なのでしょうか?


  と、このようなことを、ゼミの終わりに至るまで考えてきたのですが、どうにも解決だとか納得に到達できないまま終了となってしまいました。ただ、このよう な、気持ち悪さは、もちろん収穫に違いありません。少なくとも、自分が信じ切っていたことに、当然のような顔をして揺さぶりをかけてくる攪乱者がちゃんと 存在して下さっていたということは、大変に面白い。それはもう、間違いがないです。


あ?「揺さぶられること」?…それが、「アート」ですか?…なるほどなぁ。


以上

2011年4月14日木曜日

「所有ゼミ」を終えての所感:2010年度 セミナーを終えて(佐藤)

<所有>からアートと社会の関係を考えるセミナーの一年目の講座が終わりました。何度かの講義や議論に参加させていただき課題の所在がクリアになったところとあいまいさがさらに深まったところがある印象をもっています。

私は大学を卒業してから、企業とそしてこの4年は行政機構で仕事をしてきました。この間、折りにつけ「個人」「家庭」「企業」「社会」について考えてきました。

いま社会は大きな変化の中にあります。これは文明の変化と言えるかもしれません。
かって基準にしていた価値観が崩れ、考えの枠組みを組みなおさなければなりません。前提としていた考えの編成替えも余儀なくさせるものです。
一方今まで意識していなかった潜在的な力の発見に出くわすことがあります。異なる分野の、予想もしない交流やドキドキするような出会いがあります。
新しい感性の風のようなながれを感じることもあります。

社会が基本はある大きな流れに連続的に変化しているように思えます。しかしながら微分的に見れば、不連続で断絶され、不均衡に不平等に不公平に、ある種のアマルガムな変容が起こっているように思えます。

このような社会の現実に目を向けてみます。私が少年だった時代、昭和20,30年代と比べますと生活は豊かになりました。食べ物は豊富になり、家には家電製品もそろい、進学率も高まり、気楽に海外旅行へ出かけられるようになりました。しかしこの10年近く、なくなったはずの「貧困」が露出するようになっています。それはこころの「貧困」と同時に物理的な「貧困」でもあります。
経済学的には新自由主義とグローバリズムの進行により、競争社会がすすみ格差社会が進んだと言うことかもしれません。政治の流れや社会のあり方、企業活動にもその影響は出ています。
そして私が関心を持つ「共同体」のありかたにも問題を投げかけます。

かっての農村的地域共同体はほぼなくなりつつあり、擬似家族集団である企業共同体も変わらざるを得なくなっています。そして集団の最も基本である血縁集団としての家族は、核家族の解体にまで進むかのようです。
このような社会の変化の只中にいて、変化を解くカギを探すことを大切なことだろうと思います。
そしてその一つが「所有」から社会を問い直し、人間の根源的なイトナミであるアートとの関係を考えることではないかと言うこのゼミナールのテーマに大いに関心を持ちスタートしたのです。

個人(集団)のイトナミであるアートが、個人が「所有」する能力の「業績」として評価されることとはどういうことなのでしょうか?
そのことについて講師である立石先生が「属性」による社会から「業績」による社会に流れは変わってきているという認識は共有できるような気がします。
そして属性による社会が否定されたからといって、業績による社会がただちに肯定されることにならないと言う考えにもなんとなく納得できるところもありそうです。

ただ、アートの世界では、親や家の力でなく自立した個人の才能の、稀有の出現性と微妙な差異性、あるいは未踏の先見性によって、作品は評価されます。それにより個人の社会的名誉や経済的享受も獲得されます。
それが個人の才能もいってみれば人類の総学習の結果としてあり、個人の「所有」物でない、その「業績」としての作品によって社会からそれ相応に評価を受ける社会のあり方もすぐには肯定できないと言うことになると今のありかたからみると少し違うのではないかと思わざるを得ません。

親の力や才能などはどちらも、人間は不平等に生まれついています。
けれど「属性」や「業績」によって富の分配がなされる社会は格差が激しくなりしかも固定化する決して望ましい社会ではないでしょう。かといって冨を、その差異によらないで、あらかじめ平等に計算し一見効率的に分配することは社会を豊かにするのでしょうか?生き生きした活力の漲る社会になるのでしょうか?

「所有」という概念を基にした社会の認識、再定義は、それが生み出される富の分配の合理性、公平性のありかたに考えを進めるようになって行きます。

一方、「所有」の発生する「場」あるいは「関係性」に視点を変えて考えることも大事になってきます。「所有」の偶然性をより必然性に転換し人間の自由や平等を考えると同時に、「場」「関係性」を自由な空間や公共性を担保とする空間であろう考えるヒントになるのが北田さんの「公共空間」の講義でした。
さまざまに社会とアクセスし「関係性」を作ろうとするとき私たちが存在するということはどのようなことなのでしょう。
排他的でなく(オープン)自己決定性が保障され(フリー)平等性が担保される場としてたとえばショッピングモールや空港ターミナルが例示されたのは新鮮な視点でした。
「公共空間」が「新しい公共」を考える足がかりになるような気がします。
それは「私」「公」「共」という思考のオーソドックスな回路とはちがう水脈を提供する深みと別の文体があるような気がします。

社会とアートという「業績」であるとともに「関係性」である概念を考える、もやもやっとした曖昧さにたどり着いた印象です。

ある面ではクリアーになりある面ではあいまいさのまえにいるのが現在です。

今年のゼミナールをふりかえりながらさらに次の水脈をさかのぼっていきたいと考えています。

「所有ゼミ」を終えての所感:<所有>と帰属(TO)

ヤマカッコをつけて何とか語意の共通基盤をつくっているとはいえ、<所有>が何を指し示すのか、出口が見つからない。入口すら分からないともいえる。ただ、芸術文化分野の現場で働いていると、<所有>が問題の中核にあることは掴めている。
 ここ数年で気づくことは、人間を所有すること――逆から見れば、帰属意識――が現場では変容してきている、という点だ。ある方向性を指し示す組織なり団体で働くことを選ばなければ、一匹オオカミとしてフリーランスで動くしかなかったように思う。
しかし、私が出会う若くて優秀なスタッフは、組織を背負わず、上手に看板を利用し、利益が相反しかねない団体同士が散らす火花をかいくぐって、鮮やかに何事かをなし遂げている。気がつけば、そんな人ばかりだ。人間を所有する側の組織は、この変化に、どこもまったく追いついていない。
 人が手のひらでにぎりしめているものは、お金だけじゃない。じゃあ何を持っているのか。もう少し探っていきたい。

2011年4月12日火曜日

「所有ゼミ」を終えての所感:「所有」ゼミを受講しての雑感(海野)

もともと私がアートの道に進もうと思ったのは、アートに対して否定的な人の多さに気付き、その状況に違和感を持ったことがきっかけでした。そして、多くの人にアートの楽しさを伝えられる方法はどうすれば良いかばかりを考えてきました。

今 回のゼミで集まったメンバーは多種多様で、アートの良い面に限らず様々なテーマに渡って議論をすることができました。3名の講師の方の講義では直接アート 関係することは少なかったのですが、自分の知らないことを多く学ぶ機会になり、逆にアートについて考えることになりました。また、タイムリーというかマイケル・サンデルの「正義論」が話題になりました。その中で「自由」「平等」「愛」「正義」などがテーマとして挙げられ、このゼミとの類似点を感じ参考にな りました。

さ て、ゼミではまず初めに立岩氏の「私的所有論」を読んだわけですが、それまで所有とアートの関係というものを漠然と共有的な認識で捉えていたため、初めに 読んだ感想は、私的所有?他者?この関係って・・・?これがアートとどう結びつけることができるのだろうか?と混乱気味でした。しかしながら、様々なテー マで議論しているうちに、自分がアートを特別視しすぎていることに気が付きました(アートは特別であり、共有することに意味があると思っていた自分がいま した)。アートには多角的側面があるのだから、他者のアートに対しての思いも多様であっても良いということです。初めは実感できなかったアートと所有の関 係ですが、そのような形で自分の中では一区切りできたと思っています。

現 状ではいわゆる多様性であることがアートにとって良い点であると同時に、そこがアートを否定する材料になってしまっているのが残念です。ただ、アートにつ いて何らかの議論ができることは良いことであり、今後時代に即したアートと社会について考えていかなければならないと考えています。

「所有ゼミ」を終えての所感:いちむらみさこ氏のワークショップ(小林)

所有ゼミで特に印象に残っているのは合宿、中でもいちむらみさこさんのワークショップです。いちむらさんはホームレス生活をしつつアーティストとしての活動をされているとのことで、稀有な存在であり、とても楽しみにしてワークショップに参加しました。

 ワークショップでは初めに街中でダンボールを探し、それで実際に公園で寝転がるということをしました。ダンボール探しの時に、「野菜のダンボールは虫がついているからやめたほうがいい」などという具体的なアドバイスを頂きました。とても新鮮な感覚でした。

 公園では蚊が多く、肌が出ているところはもちろん、服の上からも刺されてしまいました。しかし、いちむらさんは蚊に刺されていませんでした。ホームレス生活を続けていると、蚊に刺されなくなるのだそうです。これにも驚きました。

  公園の一角で寝転がってみたのですが、やはりどこか落ち着きませんでした。公共空間で寝転がる、というのはどこか疚しいものを感じてしまいます。とはい え、「公共」空間と「私的」空間などは所詮人間が区分けした概念であり、明確な境界など本来はないはずです。私が私の身体でその場所を占拠している、とい う事実は、疚しさを感じる公共の空間だからこそよりダイレクトに感じることができました。

 野宿ということでは、私は学生時代に日本各地をヒッチハイクで回った時に何度も経験しました。真夏と真冬の両方で経験しています。しかしながら、旅行者としての野宿とホームレスのそれとは大きく異なると感じました。

  その大きな要因の一つはホームレスの野宿が常に「暴力」にさらされているからだと思います。これはいちむらさんから直接伺ったことですが、ホームレスは理 由のない「暴力」の対象となっているそうです。理由もなく、蹴られたり、殴られたりするそうです。しかし、ホームレスの側も「暴力」に慣れてしまう部分が あって、なされるがまま抵抗をしなくなってしまう現実があると伺いました。暴力を受けたら、その相手に対して、「やめろ」と言葉できちんと自分の意思を伝 えることをいちむらさんは実践されているそうです。

  ホームレスはまた「排除」される対象ともなっています。住民の目、行政の権力によって「排除」へと追い込まれます。徹底した社会的弱者です。ゆえに、自ら 積極的に社会に関わらないようにしていると伺いました。ホームレス側でも社会との棲み分けを意識的に行なっているというのは意外な事実でした。

  所有ゼミで「所有」を考える上で、「持たざる者」としてのホームレスの存在を考えることは視野を広げるのに一役買いました。しかし、このゼミのテーマであ る「所有からアートを考える」ということについては、「所有」の概念の幅の広さに足をすくわれ、結局、考えを深められずにいます。これらもしぶとく考え続 けていきたいと思います。

今年度の「所有ゼミ」を終えての所感

講義レポートと前後いたしますが、ゼミナール終了(最終回1月24日)後の2月に執筆された、ゼミ生の感想文を掲載いたします。

2011年4月11日月曜日

ゼミナール参加者感想文:立岩真也「学芸に対する公金支出の正当化の困難について」(2010/10/25)

ゼミナール参加者感想文

編:事務局 古賀 

【いなき】

 人はそれぞれの人生を歩み、それぞれの人生の幸福観は異なり、それを強制することは妥当ではない。この前提から考えた場合、立岩教授の言うとおり、いったん財を割り振ったうえで、「自分が大切だと思うもの」を選択・享受することをそれぞれの個人に任せるのは自然な考え方だと思う。立岩教授は、「芸術・学術に対する公金の支出を正当性を主張するのはかなり難しい」と言いつつ、「現実に不平等である限りにおいては、公的支出が支持される」として、その他の正当化理由(公共財、価値財、国家の威信、アートの手段化)に疑問をもつ一方で、所得の少ない者への現金での給付を支持する。もし、アートを享受したくても、所得が少ないなどの原因で、あきらめざるを得ない者がいるのならば、彼ら/彼女らのために公金支出を行うというのが、個人の平等という視点からは筋が通った政策だと思う。「芸術文化の振興」という抽象的で全体的な言葉が自明のように唱えられても、具体的で個人的なレベルで日本に住むすべての人が本当に文化的に生活できているのかが真剣に問われているように思えない現状への痛烈な批判とも考えることができるような気がする。「分配する最小国家」が保障する権利に文化に関する権利が入ってくるか微妙な問題であるが、国際社会では「文化的な生活に参加する権利」の研究が進みつつある。この権利において、「限られた範囲の人々の権利の充実」よりも「すべての者の権利の平等」を重視する傾向にあり、これは立岩教授の自由で平等な権利観と一致する。前者のための公金支出が正当化されるとすればどうなるか。「文化は大事」とは普遍的に言えるとしても、個々人がどの文化を大事に思うかは個人の主観的な選好の問題であって、「芸術を振興しなければならない」とはアプリオリには言えず、個々人の必要の強度に比例して振興の規模が決定されてくるのではないかと思う。芸術文化政策研究者や芸術愛好者はしばしばヨーロッパ諸国の文化政策と日本の文化政策を比較するが、そもそも、「日本人はヨーロッパ人が芸術を好きなのと同じ程度に芸術が好きか」どうかが問われてもいいと思う。また地域の文化政策を考えるとき、芸術を振興せず他の文化を振興する自治体があってもいいと思う。文化的表現の多様性が公金支出の正当化の理由になるかを質問したが、芸術の多様性が大事であっても、それを大切だと思う人がいなければ意味がないのではないか。文化的表現の多様性も文化振興と同じように、それ自体重要だというより、個々の表現を大事に思う人が存在してはじめて重要と言えるような気がする。立岩教授の講義から、個人の自由で平等な権利という視点から、文化に対する公金支出の問題を考えることの重要性を感じることができた。

【古 賀】

 先生にお話しいただいた翌週、受講生によるディスカッションにおいて、税金の一部の使い道を、納税者自身が選択できるようになればいいのではないか、という提案があった。しかし、もしも、その選択が可能になったとして、果たして、アートを好きだという人々や、アートに関わる人々は、税金の使い道として、アートを選択するのだろうか。

 税金とは異なる性質のものではあるが、卒業生や企業等からの美術・芸術大学等への寄付金は一つの指標になりうるのではないか—例えば、やや飛躍してしまうが、美術に関わった人である卒業生は、美術・芸術大学に対して分配を行うのか—と考え、その状況を調べてみたいと思った。

【中 村】

「学芸に対する公金支出の正当化困難について」という刺激的なタイトルの特別講義は、その内容も刺激的だった。正当化の理由として主なものに、社会には1人1人が考え付くよりも大切な価値があるという考え方、国威高揚、文化国家たるために国が予算をつけるべきという考え方、大きく2つが考えられるが、いずれも国家主義にすり寄りがちである。所有・業績によって評価される社会ではなく、必要なものが分配される社会を肯定しようとすると、理論的には個々人への分配とは別の政府による特別枠での支援の正当化には、アートに限らず困難が残る。理論的理想像とは別に現実には社会に不平等が存在しているので、その是正として特別枠が正当化されうるにすぎない。以上のように理解した講義の内容に対しては、もっともだと思ってしまった。

たいていの場合経済学者が生産から話を始めるところ、立岩先生は分配から始めているのが面白かった。配るものがない場合はどうなるのか?という素朴な質問に対しては、今の世の中においては配る財がないことではなく、財を生み出せる資源の所有が偏っていることが問題だと考えているという丁寧な回答を頂いた。おそらく偏りを是正するための現状措置として、強制力を持った政府の関与が肯定される余地はあるのだろうと思う。

文化政策の、特に芸術支援を重視する論者の見解の中には、市場を敵視するあまり逆に政府を無条件に信頼しすぎていないかと思える議論も少なくない。立岩先生の議論は、政府の必要性は認めつつも、理論的には政府は分配だけしていればいいのが理想、という、適度な政府との距離感を感じた。

講義の翌週のゼミの議論で気付いたが、分配を受け取ることができる人間の範囲はどこまでか、例えば子どもは大人と同様に分配を受け取るのか、それとも子どもに対しては教育をはじめとするパターナリスティックな配慮も正当化されるのか、あるいは将来世代、世代間での分配をどのように考えるのかといった問題についても、質問できればよかった。

また個人的には、受講生の間でも「アート」について、アートに対する(特別な)分配を認めるべきという立場と、アートも分配の対象として考える立場、つまりアートを分配を受け取る社会の構成員ととらえるか、分配される対象物(生産された財あるいは生産に用いる生産物)として捉えるか、という前提の違いがあるのが面白かった。個人的にはこれまで後者の見方しかしていなかったので、視野を広げてもらえた。

前者のようにアートを捉えた場合、アートに対する特別な分配を認める理由として、アートは何かの役に立つから支援すべき、という論理があり得る。文化経済学はその立証を目指してきた学問でもあると思うが、「芸術が役に立つ」論調が強すぎると「役に立たない芸術は意味がない」ということになってしまう。一方で立岩先生の理論からは、何かの役に立てるという業績ではなく、アートが何の役に立たなくても社会に存在している以上、アートが必要とする分配は認められるべき、と主張できる可能性もあるのではないかと思った。その場合「アート」とは「芸術」とはそもそも何なのか、という本質論になるのかもしれない。

以 上 

2011年4月10日日曜日

講義概要:立岩真也「学芸に対する公金支出の正当化の困難について」(2010/10/25)

連続ゼミナール「<所有>からアートと社会の関係を考える」特別講義(1
「学芸に対する公金支出の正当化の困難について」

講義概要

講師:立岩真也(立命館大学大学院先端総合学術研究科教授)

日時:1025日(月)19:30-21:00
会場:早稲田(本部)キャンパス 26号館(大隈記念タワー)302会議室
ゼミナール講師:
曽田修司(跡見学園女子大学マネジメント学部、ITI事務局長)
藤井慎太郎(早稲田大学文学学術院、演劇博物館GCOE芸術文化環境研究コース)
主催:早稲田大学演劇博物館グローバルCOE芸術文化環境研究コース

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1.アートについて

「アート」に関心があるかと問われたら、僕自身はあると言えばあると思う。以前は年200本近く映画を見ていたが、25年前に「これにはまっていたら仕事はできない」と思ってやめた。25年前にアートに関する知識はストップして、今は縁遠い禁欲的な生活を送っている。

2.所有について

ずっと「所有」をめぐる話を考えてきた。「所有」についてみんなが正しいと考えていることが私には腑に落ちない、それをどう言うかが初発の問題関心だった。25年間考えてきたことは、そんなに難しいことではないと思っている。そんなにややこしい話をしているつもりもない。

社会における理念系の「所有」は、「誰かが何かを作った、そうしたら作ったものはその人のものになる」という考え方だ。それは人の価値にも関わっていて、何かを生産することが、その人の価値にもつながっている。その前提にあるのは、ロック的な社会観だ。それ以前は、生まれや身分で受け取れるものが違っていた。多く受け取れる人もいれば少なくしか受け取れない人もいる。そういう社会は嫌だ、ということで市民革命が起きた。ロックはその理論的リーダーでもあった。属性で人が得られるものが決まる社会を批判し、人の能力・業績・生産によって得られるものが決まってくる社会に導いた。「所有」をきちんとやっている人は案外少ないが、属性による社会から業績による社会へ、という流れの認識は共通していると思う。私も属性による社会はよろしくないと思う。属性による社会の否定の反転として、業績による社会が肯定された。それについて自覚的な論もあったが、いつしか自明のように言われるようになった。

僕が分からないのは、属性による社会が否定されるからといって、業績による社会が直ちに肯定されるとはならないのではないか、ということだ。その話を最初の本『私的所有論』(勁草書房、1997年)と最近出した『人間の条件』(理論社、2010年)でしている。

では、業績による社会がよくない、ということをどう言えばいいか。『自由の平等――簡単で別な姿の世界』(岩波書店、2004年)、『税を直す』(共著、青土社、2009年)、『ベーシックインカム 分配する最小国家の可能性』(共著、青土社、2010年)で書いてきたが、ざっくり言えばこういうことになる。業績による社会では、できる人はたくさんできてたくさんとれる。できない人はちょっとしかできなくてたくさんとれない。僕が疑問に思ったのは、それが正しいのか、ということだ。どんな身体の性能を持っていても、だいたい同じような暮らしができるのがいいのではないか、それの何が悪いのか、と思った。そういう意味で僕は英語で言えばエガリタリアン(平等主義者)だと思う。できるできないの差で人々の暮らし向きが変わるのはおかしい。人がだいたい同じだけの暮らしをできるのがいいと思う。世の中に「財」があって人間が4人いるなら、「財」を4人で分けて暮らしていけばいい。その何がいけないのか、と思った。

もう少し考えてみる。4人の人間を仮にABCDとする。それぞれ違う人なので、同じだけ持っていても同じような暮らしはできないかもしれない。例えば歩ける人が多い社会においてAさんが歩けないとしたら、「早稲田大学に移動する」という同じだけの結果を得るにも、介助などよりコストがかかる。そういう人に対しては、コスト分を他の人と調整して上乗せすることは必要だろう。他の人から少し減らしてコストがかかる人に足すぐらいの調整は、世の中でやってもいいと思う。

3.学芸について

そういうふうに世の中を考えたときに、そこで学芸はどのように位置づけられるだろうか。世の中にはいろんなものがある。世の中には貨幣というものがあり市場というものがあるので、食べ物にお金をかけるのも着るものにお金をかけるのも個々人の自由、というのがいいのではないか。お金は換算には便利なので、世の中のお金を4等分して分ける、そして11人の事情によって必要なコストは別途割り振る、そういうスキームを考えることは可能だと思う。

そういう風に考えた場合に、学芸、アート、その他諸々はどういう位置づけになるか。GCOEからお金をもらっている僕自身、口籠ってしまうところもある。普段は、障害とか生存とか、世の中で明らかに困る人のことを考えることの方をやってきた。これから話す話の難しさは、エガリタリアンだけのものでもない。

3度の飯よりも映画や美術が好きな人はいる。そういうことを自分でやりたい人も当然いる。「財(goods)」とは、語源をたどれば元は「よいもの」のことだ。そんなに狭く考える必要はなく、アートや人のパフォーマンスも含めて我々が享受するもの、として考えていい。そういうものは我々が享受する大切なものの1つである、ここまでは広く認められていると思う。

例えばお金で換算して全部平等に分配したと仮定したときにアートはどうなるだろうか。11人が自分の持ち分の中で判断して、アートにお金を払うことは認められるだろう。一方、学芸、例えば研究プロジェクトのスキームは、世の中にある「もの」を個々人に割り振るのとは別枠でとっておいて、その別枠の使い道を政府なら政府が決める、という考え方に立っている。なぜその別枠が正当化されるのか。今日の話は「別枠の正当化は意外と難しい」という話にならざるを得ない。

自身が関わっているGCOEの予算は全部で約3000万円、つまり3000万円の別枠をもらうことで成り立っている。別枠について、経済学では公共財という言い方をしたりする。経済学の世界では、マーケットのやり方だとうまくいかない部分を公共財につなげて、それを政府が供給すべきという話をする。教科書レベルの基本的な話だが、この話には限界もある。教科書的にいえば、公共財には「非排除性」「非競合性」という性質がある。非排除性は、人々がやってくることを止められない、あるいは止めようとするとものすごいコストがかかる、という性質だ。非競合性は、誰かが使っても他の人の使用が妨げられない、という性質だ。例えば道路は、ものすごい込んでいるのでなければ、誰かが通ったことで他の人が通れなくなることはないし、それで困る人もいない。こうした「非排除性」「非競合性」という性質を持つ財の場合は、11人からお金をもらうのはうまくいかないから政府持ちでいこう、というのが公共財の考え方だ。

この「別枠=公共財」の考え方がうまくいかないのは、昔ならともかく技術が発達した今日では、「個別徴収の徹底」はそんなに難しいことではないという点にある。11人からお金をとるのが難しい部分は政府持ちという考え方が、技術の進歩により成立しなくなってきた。そういう状況で、公共財であることを理由に別枠を特別扱いすることは正当化できない。

「課題は、国家を認めた上で、余計なことからどこまで離れられるかである。実際、国家は権利を強制力によって保障する活動――分配はその重要な一部である――だけを行っているのではない。さまざまなものに租税からの支出がなされる。今、分配は支持されたが、それは政府支出全般を支持するものではない。むしろその大きな部分について正当性を疑うことになる。「厚生経済学」では、公共財については政府支出がなされるべきだとされる。その公共財と個々人から個別に料金をとれない、そして/あるいは、とるべきでない財だと言われる。港湾、警察、国防…等々があげられる。しかし、「とれない」のか「とるべきでない」のか、いずれかの理由によるのかはっきりしないものもある。また、「とれない」場合には、(かつてはだめだったが、今なら)とれる方法があるかもしれない。例えば、すべての道路を有料化することは技術的には不可能でないかもしれない。次に個々人から「とるべきでない」と言えるもの、つまり全員から「とるべき」だと言えるものがどれだけあるだろうか。例えば、「文化」や「学問」に税金が使われることの正当化は、少し考えてみると、そう容易なことではない。さらに、産業の保護や育成はどうだろうか。景気対策はどうだろうか。これらのことを考えてみてよい。」(立岩「分配する最小国家の可能性について」、『社会学評論』49-3(195)1998年、426-445頁。)

マーケット自体を否定せず、平等な分配を達成するやり方は、そうそうない。例えば「マーケットの中では格差が生じるから、政府がみんなからお金を集めて再分配をする」という考え方があった。それを実際にやったのが福祉国家だ。それに対して常套的に投げつけられてきた批判というのは、「そのやり方は国家の個人に対する干渉を大きくし、政府の権限を拡大する」というものだ。

お金を配るときに優先順位をつけて配分するなら、それは国家の好みによる個人への干渉といえる。それに対し「分配する最小国家」という言葉で言いたかったのは、国家は分配はするけど好みは押し付けない、ということだ。単純な割り算+ちょっと複雑な調整で、それを分配して人々に配り、人々はそれで生活する。政府は単なる会計係にすぎず、計算ができれば人間でなくてもいいのかもしれないくらいになる。ノージックが昔言ったことだが、そういう最小国家の在り方は、理屈としては通っている。そうすると、11人に分ける部分とは別枠にお金をとっておく、ということの正当性が困難になる。

マーケットの格差是正以外の正当化の理論づけとして、私的には歓迎できない理屈だが思いつくのは、レジュメで書いた「実現されるべき価値あるもの」論と「国家の威信」論、「情操教育」論ぐらいである。

「他に何か言えるだろうか。個々人の選好(preference)を超えて実現されるべき価値があり、ゆえに、その価値あるものについては――個々人に委ねるなら個々人がそれを選好しなくとも――支出されるべきであるという主張がある。しかし、そこまで言うか、言えるか。

 あとは、現実にあるのは、「文化国家」であらねばならないといった話である。つまり他国(の人々)にかっこつけるためには、そういうことにも金を出すべきだというのである。しかし、それは「国家の威信」であるとか、そんなものを支持するということにもなる。

 他には、そうすると(いっけん無駄のように思えても)なにかの利益を生み出すといった筋の話がある。「情操教育」が大切だといったような話である。そんなこともあるかもしれない。しかしそれは、アートをなにか(よいもののため)の手段とするということでもあり、常識的に考えるならなにか役立ちそうに思えないものには金を出さなくてよいということにもなる。」(当日配布資料より)

「実現されるべき価値あるもの」論は、言ってしまえば社会には11人が考えつくよりも大切な価値があり、そのためにはお金を使ってもいいという考え方である。例えば文化財の保護などは、人に受け入れられなくてもやっていい価値あるべきことだという理屈になる。「文化財を大切に思うこと」自体は平等に配る社会でも否定はされない。個々人が自分への分配の中から文化に寄付をすればいい話で、それが否定されることはない。ここで言っているのは11人の分配とは「別枠」に、そういうことにお金を使っていいということの正当性の問題だ。そこでは、「これよりこっちの方が大切だ」ということを証明しなければいけない。例えば「国立の能楽堂を作ることは、~より重要だから、実現されなければいけない」と言わなければならない。ただアートをそういう持ち上げ方をすることにためらいを持つ人もいる。この辺りはアンビバレントな議論で、僕自身も「特別だ」という言い方をしたい気持ちもする一方で、そのカードを使っていいのかという抵抗も感じている。

 「国家の威信」論は、例えば「文化国家」の話である。文化政策なりスポーツ振興なりにお金を日本はこれまで使ってこなかったから他国と比べてみすぼらしい。だからお金をつける必要がある、という言い方だ。この議論に乗ることに抵抗がない人もいるだろうが、そういった国威高揚のためにお金を投下することを正当化する考え方は、国と国との優劣を大切にすることにも通じていて、ためらいも感じる。国家予算をつけるにあたっては、何を優先するのが国家としてかっこいいのか、より優れたもの、より高級なものという選別が働き、現実には選別されたところにお金が投下される。そんな理屈でお金を出してほしくないと思う人もいる気がする。僕自身もそう思うし、この言い方を使うことには抵抗を感じる。

 「実現されるべき価値あるもの」論と「国家の威信」論、この2つの言い方では座りが悪く、学芸への別枠支援を正当化できない。

エガリタリアン的な立場からの別枠正当化の可能性として1つ言えるのは、現実は平等な分配にはなっていないということだ。貧乏人はどれだけオペラが好きでも全然観にいけないということは現実に起こっている。現実に平等な分配が成り立っていない以上、それは人々がそこそこ好きなものにみんなアクセスできることを目指すというエガリタリアン的な立場からは望ましくないので、ミュージアムにお金を出して無料化するといった試みなどは、意味があると言える。アクセス権の保障は正当化されうる。平等な分配がなされていない今の社会においては、特別枠による再分配がある方がないよりはいいとは言えるかもしれない。

ただ理論としては、11人が何にお金を使うか11人が決めるのが望ましいという社会を考えるなら、その社会と特別枠による再分配がある社会とどちらが望ましいかと言われると、後者がより望ましくないことになる。そういう意味で話は終わっていない。

4.最後に

僕は所有・業績の社会を否定し、そうではない社会の在り方として分ける社会、分けられたそれぞれの持ち分から好きなものにお金を出せばいい、という考え方をしている。そういう考え方からは、特別枠によるお金の出し方の正当化は困難になる。正当化には「実現されるべき価値あるもの」論や「国家の威信」論のような論理が必要だが、国家主義にすり寄るようで居心地がよくない。それ以外の正当化手段は現時点では見当たらない。ただし、理論的な理想の世界像とは別に、現実には不平等な社会という実態がある。そこで不平等を補正するための再分配として、特別枠の存在意義はあると思う。ただそれは不平等な現状に対する補正措置としての肯定にすぎない。原理的に分配する社会を肯定しようとすれば、特別枠を認める社会の理論的正当化には困難が残ることになる。

5.質疑応答

Q1:

不都合を補正してほしいと声を上げるのは誰か。実際にはマイノリティは声を上げにくいのではないか。

A1:

現実には補正、そのための追加費用の支出は行われていない。それでは困るということは、理屈で言ったり情で訴えたりして、誰かが言わなくてはいけないのが現状だ。ただそれは事実ではあるが望ましいことではないと思う。望ましい姿のためのしかけを考えるのが僕の仕事だと思っている。

「僕は人と比べてこんなに大変だから余計に頂戴」と言うのは確かに面倒だし苦痛だ。それもしかたないとはいえ、できるだけそれを言わなくても済む社会がいいとは思う。あまりたくさん言わずに済む仕組みとして、どうすればいいか考えている。『弱くある自由へ』(青土社、2000年)でも少し書いたが、今考えているのは、同じくらいの枠でいったん分けるとして、やりたいことをやるのに枠以上にかかった追加費用については、その分だけ言い値で認めてもいいのではないか、ということだ。例えば医療はそういう仕掛けになっていると言える。医療制度がそこそこ回ってきたことを考えると、そこまで非現実的な話でもない。「自分は大変だ」と声を上げなくてもいい社会は難しいかもしれないが、あまり声高に言わなくてもいい社会はあり得るのではないか。

Q2:

文化の多様性、経済のグローバル化による文化の画一化を防ぐために政府介入が必要という文化の多様性の理論は、正当化の根拠になりうるか。

A2:

正当化の十全な根拠かどうかは分からないが、大切なポイントだと思う。現実にはA文化を保持するコストとB文化を保持するコストは違う場合がある。多くの人に支持されていて頭割すると1人当たりの負担は少なくて維持できる言語Aと、使う人が少ない言語Bでは、人が使い続けるためのコストは違ってくる。コストが違う以上、余計にかかる部分について特別の別枠措置は必要だという有力な根拠の一つにはなるだろう。

ただその場合も大切にしているもののために余計なコストがかかっているという評価は誰かがせざるをえない。そういう評価も政府はするべきではないというのがリバタリアンだが、その辺は私は若干中途半端で、何よりも何が大切であるという順位付けは必要だし、だから保護が必要、ということは言っていいと思う。そして集団間でコストが違う場合に、コストの補正を行うことはありうると思う。つまり補正のための別枠は正当化するわけだが、それ以外の別枠については課題は残る。

Q3:

世界にものが余っている豊かな状態でなくとも「分配」は成り立つか。

A3:

僕自身は、生産財・人の労働・その結果としての生産物、その3つの分配が重要という立場をとっている。今の世の中の資源の過小状態は、生産財の所有の偏りに起因すると考えているので、それは世界における資源そのものが少ないことを意味しない。生産財=原料はやがて無くなるかもしれないが今は無くなっていない。人の労働という意味では、失業率50%の世界でも半分の人はまだ働ける。もし世界における資源そのものが少なくなったらという極限状態の話と、今の状況は別で、現状何か足りないとは考えていない。

Q4:

情報格差は「分配」の問題に含まれるか。

A4:

情報の非対称性、受け取るものがどういうものかわからなければ選びようがないというのはその通りだと思う。情報格差の補正は必要だと思う。そのために、政府が特別のアクセス装置を作るのがいいのか、それともきちんと分配がなされていれば特別なことを政府が用意しなくても情報を提供するサービスも提供されて格差が補正される可能性もあるのか。情報がないと選択が成り立たないのはその通りだが、選択の保障のための手段は次の別の問題になる。情報があれば分配はうまくいくという考え方か、それだけでは不十分と思うか。僕はかなりうまくいくと思うが、資源が与えられればそれでうまくいくと思うほどの楽観主義者でもなく、余計な親切、おせっかいが必要という場面も多々あるのではないかと思う。

Q5:

アートが何のために存在しているかといったときに、内面世界の擁護、精神世界の重要性をストレートに訴えるのは難しい。自分というものを所有することの困難さを訴えないと、アートの必要性を語れないのではないかと思っている。立岩先生の言い方で言うなら「他者がいることが快である」こと、「弱くある自由へ」、その伝わりにくさはアートとも通じるのではないか。

A5

仰っていただいたようなことは僕がものを考える根底にあるような気がする。素朴な直観のようなもので、直観は現実そのものでもあるような気がしているのだが、「私よりも世界の方が大きい」という感覚はある。ここでいう世界は人間と人間以外のものも含めた「他者」を意味する。なのに我々の社会の根本はすべてのものが「私」から端を発して回っているしかけになっている感じがするのが、素朴に嫌だった。

私はこれだけだけど、私を取り巻く世界は常に私よりも大きくて私よりも豊かである。その思いから出発して論じている感じはする。それがアートと何かつながる気はするが、今日はそういった存在論を展開できるように思わなかったので分配の話に徹した。ただ根底でずっと思っていることではある。

Q6:

先生の著書は性善説だと感じていたが、今の世の中は著書執筆当時よりどれだけ変わっていると思うか。

A6:

僕は性善説か、といわれるとちょっと微妙だと思う。本当に性善説で行けるなら政府は要らない。取り過ぎる人と足りない人が生じるという事態がそもそも起こらないだろうし、起こったとしても自発的な贈与でみんなが補正し合えるから強制力は要らない。政府が他の機関と基本的に何が違うかといえば、強制力を持つというただ一点に尽きる。ある種の無政府主義者の人たちは強制力の不在を期待しているところがあるが、私自身は強制力も必要だと思っていて、そこまでの性善説主義者ではない。

ただなぜ人は強制に従うか、従ってもいいと思っているか、となると、また別の話になる。その限りでは、僕はあまり世の中がだんだん悪くなっているという話はしない、予めの悲観主義には立たないでものを考えようと思っている。